この星で生きていく

「いじめる側こそ、本当は弱虫です」/教皇フランシスコからのメッセージ

世界はあなたを必要としている

世界はあなたを必要としている

 

なぜ、この世の中にはこんなにも暴力があふれているのだろう……

 

私の家には長いことテレビがありません。もともと静かに過ごすことが好きだという理由もありますが、テレビというのは一方的に情報が流れてくるようなところがあり、胸が悪くなるような悲惨なニュースを聞くと、数カ月、怒りや鬱っぽい感情が起こってしまうからです。

抵抗できない存在への暴力というのがとくに辛く、大きな車が我が物顔で走る様子にも怯えるようなところがあります(弟がトラックにひかれる夢を見たのです)

 

いじめや差別の経験を話すことは、勇気がいることです。

私も、無私や見下し、身体を傷つけられること、精神的な痛みがずっと残るような暴力を小学生の頃から経験しました。とても辛い思い出です。

仕事をするようになってからも、「人間のクズ、人として終わっている、醜い、汚い、ブサイク、おまえには挨拶をする価値もない」、このような言葉をマネージャーに言われたことがあります。

頭では、人が言うことや行うことはずべて自分のことであり、このようなことを言う人こそ自信がなく、劣等感の塊なのだとわかっていても、目の前で明らかに「お前を傷つけてやろう」という暴力は、私のエネルギーフィールドに傷をつけ、何日も横になると胸が圧迫されるようでした。

 

どのような理由があろうとも、人に暴力や罵声を浴びせることは許されることではありません。身体的な暴力でなくとも、傷ついたエネルギー体を修復するには、何年もの時間を有します。

 

今回は、2019年11月に来日をした教皇フランシスコが「いじめ」について話してくださった言葉を紹介したいと思います。医療関係者への差別、いじめ、自粛警察など……不和と不信を募らせて暴力に出る人たちがいますが、人間同士が争うえばウィルスは倍増します。

 

私たちが調和と平和に生きることがどれほど大事が、本物の平和は、相互依存と共同責任によって築いていく未来に奉仕する、連帯と協同の世界的な倫理によってのみ実現可能であると、

自分だけの利益を求めるために、他者に何かを強いることが正当化されてよいはずがないと、

武器を手にしたまま、愛することはできないと、

人間の行動と人類の運命を巧みに操る全体支配主義と分断を掲げる政略、度を越えた利益追求システム、憎悪に拍車をかけるイデオロギー

 

これらに対して、声を挙げ続けている教皇フランシスコの言葉を、私の感想や考えと共に伝えさせてください。

 

 

 

自己嫌悪の悪循環

学校でのいじめが本当に残酷なのは、自分自身を受け入れ、人生の新しい挑戦に立ち向かうための力をいちばん必要とするときに、精神と自尊心が傷つけられるからです。いじめの被害者が、「たやすい」標的なのだと自分を責めることも珍しくありません。敗け組だ、弱いのだ、価値がない、そんな気持ちになり、とてつもなくつらい状態に追い込まれてしまいます。「こんな自分じゃなかったなら……」と。けれども反対なのです。いじめる側こそ、本当は弱虫です。他者を傷つけることで、自分のアイデンティティを肯定できると考えるからです。実は、いじめる人たちこそがおびえていて、見せかけの強さで装うのです。これについて……よく聞いてください……自分がほかの人を傷つけたくなったり、だれかほかの人をいじめようとしていると感じたり、そう見えたりしたなら、その人こそ弱虫なのです。いじめられる側は弱虫ではありません。弱者をいじめる側こそ弱いのです。自分を大きく強く見せたがるからです。自分は大した存在なのだと実感したくて、大きく見せて強がる必要があるのです。

 

人間は、どうしても愛されたい存在です。

教皇の「いじめる側こそ、本当は弱虫です」という言葉に大きく賛同するとともに、こんなにも愛をもって虐げられた人たちを助けようとしている人がいることに、感動します。

愛されない思いの悪循環、それを私は思います。とくに日本人は自己嫌悪や自己評価の低さが際立つ民族だと言います。他人が非常に素晴らしく見える反面、自分はダメだとコンプレックスに悩んだり、そのうち他者を嫌うようにさえなったりもします。自分のことを愛せないのですから、他者を愛せないのは当たり前のことです。

なぜ自分を嫌うのでしょう?

他人よりすぐれていて目立っていなくてはいけないという不安感や危機感、親から負わされる世間体や見栄や期待(たとえ善意の場合であっても)、親の期待に応えられないことで親不孝をしたと罪悪感を抱いたり、条件付きの愛しか得られなかったり、幼いうちから私たちは何十もの傷を負うのです。

社会に出ても、成功の道にうまく乗れているだろうか?ということを気にしたり、自分を評価するときに間違った考えによって裁き、破壊的な決めつけに至ることも多く見られます。社会に評価されなくてはダメだと、自分が完全な人間でないと愛してもらえないと、破壊的な決めつけをし……

やがて、愛を渇望していたのに愛を拒みます。人間の破壊的な傾向は、教育や環境による影響よりも、もっと根深いところから来るものです。それは愛を受け入れない姿勢です。自分が愛に値すると信じることができなかたくなな殻や抵抗です。

 

私自身、このような破壊的な傾向を経験してきました。いじめを行う人たちの中にも見てきました。愛という心のガソリンを忘れて、技術をどれだけ発展させても、暴力を生むばかりです。

自己嫌悪については今後も文章にしていきたいと思います。

 

 

 

人を軽んじる「どうしようもない奴」は私でした

自分にないものばかりに目を向けることもできますが、自分が与え、差し出すことのできる人生を見いだすこともできます。世界はあなたを必要としています。今日、起き上がるのに手を貸してほしいと求めている多くの人に、勇気を与えるために、主はあなたを必要としておられるのです。人生に役立つことを一つ、皆さんに話したいと思います。人を軽んじ蔑むとは、上からその人を見下げることです。つまり、自分が上で、相手が下だと。相手を上から下へ見てよい唯一正当な場合は、相手を起き上がらせるために手を貸すときです。わたしも含め、この中にいるだれかが、だれかを軽んじ見下すなら、その人はどうしようもない奴です。でも、この中のだれかが、手を差し伸べ起き上がらせるために、下にいる人を見るのなら、その人は立派です。だから、だれかを上から下へ見るとき、心に聞いてみてください。自分の手はどこにあるか。後ろに隠してないだろうか。それとも立ち上がらせるために差し伸べているか、と。

 

もう昔のことですが、私は一度だけ摂食障害の自助グループに参加をしたことがあります。

大勢の人とつながり合うムードを作られることが苦手だったので、少人数のグループに参加をしました。その時、共に体験を分かち合った女性が、私より年下だったのですが、自分が傷ついているのにすごいのは家族や周囲の人で、自分が悪いと常に責めていました。要するに、先ほどもお話しした自己嫌悪に、彼女も苦しんでいたのです。

私はとても心が狭く、自分が悪い、悪い、という言葉を繰り返す彼女の話を聞いているうちにイライラしてきました。本当は私も彼女と同じ、自分が悪い、ダメだと責めている仲間なのに、自分の心の影を彼女に投影して、嫌いな自分を目の前に見るような気持ちになり、優しくなれなかったのです。私は彼女に冷たくすることで、自分を傷つけました。

それなのに、彼女は私の発言に何か言うときに、「わかります、何て言ってはいけないのだけど」と気まずそうに笑いながら、自分の意見を言いました。それには過小評価の気持ちも働いているとは思いますが、私はもっとそれ以外のことを直観的に感じていました。

今まで、その方は、理解されない、わかってもらえない、居場所がない……そのような思いをたくさんしてきたのでしょう。

だから簡単に人に対して「わかるよ」だなんて言わなかったのです。自分の言葉で人に辛い思いをさせない配慮だったのです。私は気難しい顔をしていたのに、年下の彼女は優しくて、笑顔がとても柔らかく愛らしかったのを覚えています。

いつまでもその方に対する申し訳ない気持ちがあり、罪悪感を拭うつもりではないのですが、彼女のように繊細で、傷つきながらも人に優しさを与えてあげることのできる人を思い浮かべながら、文章を書くことが多くあります。

 

あの日、私は人を軽んじ、見下す、「どうしようもない奴」でした。

それなのに、手を差し伸べてくれて、本当にありがとう。

 

高校生の頃、手術後に参加した修学旅行も、体力がないので皆と同じようにゆるい坂道も上れませんでした。どんどんクラスの皆と離れていき、先生さえも気に留めず、また「待って」と声をかけることもできないぐらいに、殻に閉じこもっていた私に、たまりかねたのか、友達でもないのに戻ってきて一緒に歩いてくれた女の子がいます。

今でも彼女の名前も顔も覚えています。一言も話さなかったけれど、彼女の優しさがあったから、生きてこれました。

 

「どうしようもない奴」は、誰かの思いやりと優しさによって、生きるチャンスを与えれていたのです。

 

 

 

自分にとって、最悪と思う貧しさは何か

夢を見るための時間も、神が入る余地もなく、ワクワクする余裕もない人は、そうして豊かな人生が味わえなくなるのです。笑うこと、楽しむことを忘れた人たちがいます。すごいと思ったり、驚いたりする感性を失った人たちがいます。ゾンビのように心の鼓動が止まってしまった人たちです。なぜでしょうか。他者との人生を喜べないからです。聞いてください。あなたたちは幸せになります。ほかの人といのちを祝う力を保ち続けるならば、あなたたちは豊かになります。世界には、物質的には豊かでありながらも、孤独に支配されて生きている人がなんと多いことでしょう。(略)貧しい人々の中でも、もっとも貧しい人々の中で働いていたマザー・テレサは、かつて預言的で、示唆に富んだことを言っています。「孤独と、愛されていないという思いこそが、もっとも恐ろしい貧困です」。心に聞いてみたらいいと思います。「自分にとって、最悪と思う貧しさは何だろう。自分にとっていちばんの貧しさは何だろうか」。

 

『ヒトラー最後の12日間』という映画に、敗戦に追い込まれ、精神的に異常をきたしていったヒトラーが、このようなことを言います。

 

「弱さには死あるのみ。いわゆる人道など坊主の寝言だ。同情は最大の罪だ。弱者への同情は……自然への背理だ。私はこの自然の掟に従い、同情を自らに禁じてきた。内部の敵を押さえつけ……他民族の抵抗を容赦なく粉砕してきた。それしかない」

 

私は、大学で発生生物学を専攻しました。子どもの頃から進化論に興味があり、「弱肉強食」を自然の摂理だと考えていた頃もありました。しかし、生物について、そして人間について知っていくほど、「もしこの世界が本当に弱肉強食であったなら、この地球から生き物はとっくの昔に滅んでいる」ということに気づきました。

カンブリア紀に起こった進化の大爆発は、実に多様な生物を生み出し、いのちはあらゆる可能性を試すかのようでした。しかし、生物の大量絶滅を生き残ったのは、もっとも弱そうなピカイアという生き物でした。

地上の覇者であった恐竜が滅んだのは小惑星の衝突や火山の噴火などいくつか説がありますが、このとき生き残ったのも、恐竜に虐げられ、限られた環境に生息していた、当時「弱者」とされていた生き物たちでした。

 

どれほど頼りなく見えるいのちでも、そこにはあらゆる可能性が秘められています。人間は体内で地球が約46億年かけてやったことを、二百数十日で駆け抜けて、この世に生まれてきます。このいのちの神秘を、一方的に全否定するのが暴力です……

それに、生物学の立場からすれば生き物の可能性は多様性にこそあり、ヒトラーが行った民族浄化は生き物としてはいちばん、とってはいけない選択なのです。

 

ましてや私たち人間は、生き物としての野生的な知性だけではなく、自分とは何かを知り、自らを高め、成長させるための知性も併せ持った存在です。

夢を見ること、超越したものへ意識が開いていくこと、どのような試練のときにも可能性をあきらめないこと、強大なものに連帯と忍耐で立ち向かっていくことができる存在です。

しかし、お金がなくなって死ぬことはありませんが……コロナの影響で不況が起こり自殺者が増えるという意見もあります。本当のところは、人は、生きがいを見出せないこと、孤独で誰にも求められず、自らを差し出すこともできない、その貧しさによって死んでしまうのです。

 

いのちに対する信念と価値観に裏付けされた教皇の言葉は胸に突き刺さります。

 

「自分にとっていちばんの貧しさは何だろうか?」

 

 

 

一人の人を救った者は、世界も救ったのだ

ヒトラーを欺いた黄色い星

『ヒトラーを欺いた黄色い星』
2017年製作/110分/ドイツ
原題:Die Unsichtbaren
配給:アルバトロス・フィルム
監督:クラウス・レーフレ
脚本:クラウス・レーフレ、アレハンドラ・ロペス
撮影:イェルク・ビトマー
キャスト:マックス・マウフ、アリス・ドワイヤー、ルビー・O・フィー、
アーロン・アルタラス、ビクトリア・シュルツ

 

 

なぜこんなにも酷い暴力があるのか、そのことを知りたくて若い頃はエーリッヒ・フロムの『破壊』を読んだりしていました。もちろん、暴力の種は私の中にもありました。

 

生と死、破壊、暴力について知りたくて、戦争映画をよく見ていました。2018年に日本で公開された映画に『ヒトラーを欺いた黄色い星』という映画があります。

ナチス政権下のベルリンで、潜伏をしていたユダヤ人は約7000人いたそうです。あるものは理解ある者の家に匿ってもらい、ある者は髪をブロンドに染めてドイツ人にふりをし、ある者は身分証を偽造し……収容所から命からがら逃げてきた者もいます。収容所でナチスが何をユダヤ人に行っているかを知り、またどう見ても敗戦は確実なのに戦勝をニュースで報告するナチス政権に対し、真実を暴こうと危険な抵抗に出る者たちもいます。

生き延びたユダヤ人は7000人のうち約1500人。その者たちも今ではこの世を去りつつあります。歴史の知られざる証言者たち本人が語るところを収めた、貴重な映画です。

 

オイゲン・フリーデはこのように言います。

「ユダヤ人を嫌うのと、ガスで殺すのは完全に別物だ。それゆえに、あの行為には理解に苦しむ。今後も理解できないだろう」

 

2012年に死去したルート・アルントは、

「私たちがアメリカの大学や学校で話す機会があるときには大切にしていることがあるの。必ず強調してきたのは、違うドイツ人もいたってこと……助けてくれた人たちの名前も挙げてきたわ。大抵の人は知らないから」

 

2015年に死去したツィオマ・シェーンハウスは、

「私が大切にしている聖職者の言葉がある。“ひとりの人を救った者は、世界も救ったのだ”。それをやったのがヘレーネ・ヤーコプスだ。私は前に尋ねた。“なぜ、あのような行動を?”ヘレーネは答えた“祖国を助けたかったの”」

 

 

もう、戦争を知らない若い人たちが多くいる時代です。

ですが、これかの未来に私たちが個としての力を強めていくことが条件だとしたならば、それは主権を持つということです。だとしたら、若いからというのは言い訳にはなりません。知っておかなくてはならないことというものがあると思います。

とくに日本は被爆国、人間が手にできる壊滅的な力を経験した数少ない国のひとつです……

 

私は祈りについて、深めている途中ですが、この映画の中にも祈るシーンが2回出てきました。ひとつはツィオマを助けたドイツ人ヘレーネが食事の前に祈るシーンです。

有名な、「主よ、食べ物がなく、空腹の人々のために、私たちは祈ります。アーメン」というものですが、当時潜伏をしていたユダヤ人は食糧の調達が困難でした。敬虔なヘレーネの、弱い立場の者、飢えた者、救いの手を必要としている人への与える愛は、生涯にわたりツィオマの生きる力となり、彼が亡くなって後も、国や時代を超えて生きつづけています。

 

さらに、ふたりの青年がドイツを占領しはじめたソ連の兵士に、ドイツ人だろ!と拳銃を突き付けられるシーンがあります。青年たちは自分はユダヤ人だと訴えますが、ソ連兵は信じません。

険しい剣幕で、「なら、シェマー・イスラエルを暗唱しろ」と言います。これは敬虔なユダヤ人でなくとも知っているお祈りで、青年たちは本当に主に救いを求めるように暗唱します。

 

「イスラエルよ 聞け 我らの神 主は唯一の主である 神の国の栄光を永遠にたたえよ なんじは心を尽くし 魂を尽くして 力を尽くして 主を愛すべし」

 

暗唱を聞いた途端、ソ連兵は拳銃を降ろし、感動に震えながらふたりの青年をしっかりと抱きしめました。ユダヤ人のソ連兵だったのです。

 

 

 

 

言葉の中に正しい答えはない

もっとも重要なことは、何を手にしたか、これから手にできるかという点にあるのではなく、それをだれと共有するのかという点にあると知ることです。何のために生きているのかに焦点を当てて考えるのは、それほど大切ではありません。肝心なのは、だれのために生きているのかということです。次の問いを問うことを習慣としてください。「何のために生きているかではなく、だれのために生きているのか。だれと、人生を共有しているのか」と。事も大切ですが、人は欠けてはならないものです。人間不在なら、わたしたちは人間らしさを失い、顔も名もない存在になり、結局はただの物、いくら最高級でも、ただの物でしかないのです。

かつて、賢い教師がいっていました。知恵を培うための鍵は、正しい答えを得ることよりも、正しい問いを見いだすことにあると。(略)でも、また別の問いを考えてみてください。「正しい質問ができるだろうか。人生について、自分自身について、他者について、神について、途切れることなくそうした問いへと導く心があるだろうか」と。

 

私は今、入院をしているのですが、ヒーラーとしての活動では初めてメールでリーディングを行うという経験に与りました。

そして、しゃべるのが好きなのですね、十数ページにわたる文章を書いてしまうのです。読んでくださるクライアントの方も大変なことと思います。熱心に読んでくださる方がいるとしたら、どうもありがとう。誰かが時間を割いてくれたこと、人生の一部を共有できたとしたら、本当に感謝の気持ちでいっぱいになります。

それでいて私はクライアントの方に最初から言うのです。私が答えを出すことはできません、と……。だけど、その方が自らの永遠性を感じられるように、精いっぱい扉をノックしたいと思っているのです。

だから、私が紡ぐ言葉の中に解答はないのですが、何か読んで自分の中に「問い」が生まれるものであったらよいと、また、自分自身にも優れた問いを突き詰められるようにと思いながら、書いています。

 

6月から「パワハラ防止法」が施行されることになりましたね。

この法律が、有名無実化することなく、本当に価値あるものとして機能していったらよいと思います。加えて、教皇が語られるように、私たちそれぞれも「いじめの文化」に対して、力を合わせて声をあげていかなくてはなりません。

 

どのような人にも可能性があります。人生は奇跡です。

人権を踏みにじる暴力のもとで多くの人が未来に幻滅をしてしまいました。戦争、差別、虐待……。私は、人を援助していきたいと思ったときに、すぐに頭に浮かんだ言葉があります。教皇の強い信念に基づいた言葉にはまだまだ及びませんが、それは「未来の暴力を少しでもなくしていきたい」という想いでした。

たった一人の魂でも、未来に希望をなくし、孤独に打ちひしがれている者に、勇気や励ましを与えられたなら、その人は十分に生まれてきた価値があり、そして、何度も自分に起こっていることは全体に起こっていることだと書いたように、あなたが誰かに手を差し伸べれば、それは世界中の人に手を差し伸べたことであり、あなたが誰かに救われたななら、世界中の人も救われたことになるのです。

時間がかかっても、回り道に思えても、夢を見て一歩ずつ進んでいきたいと思います。何もしなければ結果はゼロですが、一歩踏み出せば、一歩前に進みます。

 

 

夢を黙殺しないでください。夢をごまかさないでください。夢見る余裕をもってください。視野を広げ、広い地平を目指すことに熱意を燃やして、待っている未来を見つめ、ともに夢を実現する熱意をもちましょう。日本にはあなたが必要であり、世界にもまた、自覚をもった、目覚めている皆さんが必要です。寛大な、明るい、情熱的な、皆のための家を築く力をもつあなたがたが必要なのです。皆さんが霊的な知恵をはぐくみ、正しい質問をすることを覚えることで、鏡を見るのを忘れ、他者の目を見ることを覚えられるよう、祈ることを約束します。

 

真の祈りは、必ずや叶います。

運命すらも曲げて……叶うのです。

 

 

Sitara

 

 

 

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