この星で生きていく

最高の天使でさえも及ばない、魂の神殿について

アイスコーヒー

アイスコーヒー

 

GEZELIG

いかに客を長居させるかでお店同士が競い合うほど豊かなカフェ文化を持つオランダには、「GEZELIG」という言葉があり、カフェの居心地のよさを指すときに使うのだそう。

発音は「フゼラク」。柔らかなレンブラント光が日本で味わえることないのかもしれませんが、日本ならではの光の中で、フゼラクに浸れないかなと思います。

 

 

 

帰る場所をなくしたあの人は
無限の道草を食っている。
わたしは世界中にバラバラに飛び散った
あの人の破片を拾い集めようとしている。
疲れを知らずに地球を回り、
誰よりも金と手間をかけ、
空腹を恐れず、恨みを持たず、
部品を集めて夢を作った
あの人を思い出し
わたしは一人でいる時の呟きに織り込む。
月を見上げて、母が唱えた言葉を。
世界で一番孤独な人を愛しなさい。
(「自由人の祈り」3節/島田雅彦)

 

喫茶店で本を読んでいたら、夕方、少し強い通り雨がありました。

さてもう帰ろうかと思った矢先だったのですが、自転車で来ていたこともあって、ではもう少し雨宿りしようと珈琲をおかわり。窓の外の雨を見ながら、この雨もやがて目の前のアイスコーヒーになり、私を構成する一部となり、安らいだ時間を演出するのだろう、また、私がこの間流した涙や、誰かの涙もこの雨となって、世界を癒し、成長させていくのだろうと思っていました。

静かで穏やかだけど、それは間違いなく至福で、エクスシーを感じる自由な瞬間。このような時、人は霊的ななぐさみの状態にあります。

 

冒頭で紹介した詩は、島田雅彦詩集『自由人の祈り』からです。

私はこの詩集に大学生の頃に出会ったのですが、魂の琴線に触れたのですね。あぁ、ここに書いてあるのは私だと思い、またそうなりたいのになれない私も感じました。

それから引っ越しをしても必ず持っていくぐらい大切な詩です。

 

この世に居場所を見つけれずにいた私は、さまよえる魂となって、少しでも愛おしさ、深い共感、深く自らを穿つような体験、慕わしい匂いがするもの、魂の形が似ているものを探し求めて、本や音楽、舞台や映画、絵画、過去の人……そう、世界中に散らばった私の魂の破片を拾い集めるかのように、生きていました。

この詩に出てくる「あなた」と「わたし」は、どちらも私自身でした。

 

それにしても、この「わたし」は何の迷いもなく、なんて喜びを生きているのかと、読むたびにその自由に酔っていました。本当にあるがままの私を生きる者は喜びを感じているはずであり、自由であり、何かを失うことなど怖れない。お金、仕事、名声、健康……何を失おうと悔やまない。本当にしたいことをしている人は、人や社会を恨んだりもしない。

 

本当は、多くの人がもっと生きがいを感じて、ありのままの自分で、自由、喜び、充実感を感じて生きたいのではないかと思います。

人間という存在は、「本質的に無限の自由を追求する」ものなんです。まずは仕事、お金、人間関係、健康状態など、自分を取り巻く環境に自由を求めます。その中で、どの部分にエネルギーを注ぐかは人それぞれ、また人生の時期によっても異なりますが、叶ったものもあれば、叶わなかったものもあります。

試行錯誤を重ね、何とか願いを叶えようと現実の中でもがきますが、お金を得ても、仕事がたくさん舞い込んでも、健康で人間関係が豊かになっても、私たちは本当に満たされるのでしょうか?

 

いつも欠乏感を抱えていた私は、人一倍、自分を満たそうと躍起になってきたと思います。スピリチュアルな世界では、内面を満たすことが大事だと教えるのですが、最初は頭での理解しかなく、やはり仕事での達成感やお金を得て安定することを強く望んでいました。

しかし、私が物質的なもので自分を満たそうとしたり、信頼してゆだねることをしないで自分の力でなんとかしようとしたり、何かをコントロールして得たい状況を作ろうとしたりするほど、人生の流れは困難になっていきました。

そうなんです、現実は移ろうものですから、外側のもので自分を満たそうとしても決して満たされません。おかしいな?これじゃなかったのか、と今度こそ完璧に自分を満たす何かを求めて探求し始めますが、霊的な道といえど、このような段階に留まるなら、人生の転機というのは一生、訪れないのです。

 

自分自身が導き手とならなくてはいけない……

 

 

 

霊動識別/神の言葉を聴く人になるには

誰のためでもなく
全ての人のために
音楽は鳴り響く。
音楽を味方に
つけておきさえすれば、
生死の境が緩み、
死者とも心が通じる。
敵であっても、おまえを愛し、
血は流れずに済む。
いついかなる時も音楽が
おまえを守ってくれる。慰めてくれる。
たとえ、父、母が死んだとしても。
食べるものがなくなったとしても。
千の恨みを買ったとしても。
住み慣れた土地を追われたとしても。
表向き美しい世の中を
本当に美しくするために
おまえは歌え。
(「自由人の祈り」5節)

 

さて、人間は無限の自由を追求する存在なので、外部から強制されたり束縛を受けたりされたくないと思うものですが、複雑で情報が溢れる現代社会で生きる私たちは、いかに生きればいいのか、具体的に何をすればいいのかがわからなくなり、それを教えて欲しいと思う気持ちもあります。

自由でありたいと同時に、何かに導かれたいという望みを持つのです。

 

この葛藤は絶えないからこそ、自分の真の望みを知ることは難しいのですが、だからといって知らないままでは、ますます何をしてよいかわからなくなってしまいますよね。

今回は、イシドロ・リバス氏の『二人の自分』という本をもとに、「霊動識別」について紹介をしたいと思います。

 

聖パウロは、自分の中には「霊の自分」と「肉の自分」がいて、それぞれ「霊に生かされた自分」と「霊に生かされていな自分」を意味しています。

キリスト教の根本的な価値は、自分自身が自分を超えた「霊」によって生かされ、聖霊の導きを受けることによって、自分が夢見た以上の自分、限りない可能性に向かって広く力強く歩むことのできる自分にしていただける、つまり「人間を変える」ことが教えの中心にあります。

 

スピリチュアルなことに関心のある人だったら、霊的な導きや高次のインスピレーションを受けたいと願ったことは、一度ならずあると思います。

「霊動識別」とは、日々の生活の中で、どのように聖霊が自分に働きかけ、促しているか、自分自身の意識の深見における動きを知り、見分けることをいいます。

聖霊や高次の存在のインスピレーションを受けることが簡単にできたら幸いなのですが、それは稀なことであり、はっきりとわかる示しを授かることはむしろありません。

また、霊性が進むほどサタンの誘惑は善や美しいものを用いて行われるので、得た導きが本当に神からのものであるかも識別しなくてはならず、この真摯なストイックさは玉石混合のスピリチュアルブームの中で、ひとつの大きな特徴ではないかと思います。

 

複雑な人間社会と関わりをもちながら、純粋な魂の思いを生きようとしたときに、多くの困難を体験すると思います。しかし、一つ一つの体験において、具体的に何をすればいいのか教えられることはないので、人はリーディングをお願いしたりするのですが、それでもキリストはこのように言うのだと、リバス氏は教えてくれます。

 

「霊がすべてを教えてくださるだろう」(ヨハネ14・26、マタイ10・19~20)
キリストに従って生きるとは、自分であれこれ考えるのではなく、自分の心のアンテナをたえまなく霊に向けて張り、レーダーで霊の指示を求め待つことであり、キャッチした霊の指示にこたえて生きることである。私以上に私を知っておられる神(ヘブライ4・12~13)に聴き従うことである。

 

リーディングやヒーリングで、その人の永遠性の扉をノックすることはできます。

ですが、「〇〇をしたら上手くいく」「〇〇を浄化したら願いが叶う」「〇〇を身に付ければご縁が得られる」というようなスピリチュアリズムは、「外側の何か」を探そうとする内面の表れであり、最終的にはその人の力を奪うものとなり、魂の永遠性を表し、喜びを放射して生きる道とは異なってしまいます。

内側から永遠なるものが溢れるとき、それは本当にこの世界を美しくし、周囲の人を幸福にし、難しい状況のときも押し流されず、強く生きていくことができます。

疲れも知らず、空腹も恐れず、誰も恨まず……です。それは囚われから解放された、真の自由、真の美しさです。

自分が抱えている問題のひとつひとつに、相談できる人がいなくても、重要な決断をするために参考となるものがなくても、今までの自分の歴史と、具体的な今の状況を通して語って下さる神の導きを求め、なずべきこと、進むべき道を探していくのは、他の人ではなく自分自身にほかならないからです。

 

リーディングやヒーリングは、そのために力を与え、痛みを致し、安らぎとなる場です。行き詰っていた時に、第三の道を見つけたり、回復不可能な病に陥っても、愛に開いていく生に気づいたりします。

ですが、常に「これは自分にとってどうなのか?」という問いは……つまり大切な気づきは……自分で得ていかなくてはならないのですね。

 

 

 

魂の神殿

聖書のうちで、イエスが神殿に入り、そこで売り買いしていた人たちを追い出して、鳩やそのたぐいのものを売っていた他の人々に向かって、「このようなものはここから運び出しなさい」と語る場面があります。

イエスがこのように言ったのは、神が力をもって思いのままに支配しようとする「魂の神殿」を空にしておきたかったからです。

 

この神殿は、すべての被造物のなかでも最も神に等しい人間の魂です。だからこそ神は、この神殿を神のほか何ひとつないように空にしておきたいと思います。

では、この神殿の中で売り買いをしていた商人たちは、どのような人でしょうか?マイスター・エックハルトはこのように説明しています。

 

重い罪を犯さないように身を慎み、善人になろうと願い、神の栄光のために、たとえば断食、不眠、祈り、そのほかどんなことであっても善きわざならなんでもなく人々。

 

つまり、このような行為と引き換えに、自分が気に入るものを主が与えてくれるであろうとか、その代償に自分の気に入ることを主がしてくれるはずだとか考えている人たちのことを指します。

 

彼らは他のものを得るためにあるものを与えようとしているのであり、こういった仕方でわれわれの主と取り引きをしようとしているからである。このような取り引きをしようとするかぎり、彼らは期待を裏切られることになる。というのも彼らの所有するすべて、彼らのなしうるすべてを、神のために捧げ、神のために行ったとしても、神が彼らに対して何かを与え、何かをなすべき義務など少しもないからである。もし神が彼らに何かを与え、何かをなしたとしたら、それは神が自由な意志で無償でなしたからに他ならない。なぜならば、彼らが何であろうと現に存在しているのは神によってであり、彼らが所有しているものは何であろうと、神の力によってそれを所有することができていなるのであり、けっして自分自身に力によるのではないからである。
(『エックハルト説教集』/魂という神殿について)

 

主と取り引きしようとすることは、真理からかけ離れたことなのですね。

だから、善意で生きている者であったとしても、商人が魂の神殿に入ることをイエスは認めません。

 

これはインドの伝統であるニシュカマ・カルマに通じるものがあると思います。ニシュカマ・カルマとは、行い自体が喜びに満ちていて、それ以上の利益や評価を求めないような姿勢のことです。「無欲の行いの神秘」と呼ばれる生き方です。

神は自分自身のものを決して求めないので、すべてのわざにあって神は縛られず自由であり、真の愛から働きます。神とひとつになった人間もまったく同じようにします。その人は自分のすべてのわざにあって縛られず、たが神の栄光のために働き、自分のものを決して求めません。

神の栄光とためとは、魂の歓びを放射する喜びに生きることを意味し、そのためには囚われがなく自由でなくてはなりません。囚われからの解放についてはまた書きたいと思いますが、自由と愛とは同じ意味なのだということがわかります。

 

 

もしこの神殿がすべての障害から、つまり自我性と無知とから自由になるならば、この神殿は、造られざる神ただひとりのほかは何ものも同じ輝きをもって出会うことのできないほどに、神の創造したすべてのものを超えて、そのすべてを貫き、美しく輝き、純粋にして透明な光を放つのである。真実のところこの神殿に等しいものはただひとり造られざる神のほかにはない。天使たちより下位にあるもので、この神殿に比べられるものは何もない。最高の天使でさえも、高貴な魂というこの神殿に、ある程度は等しいが、しかし決して完全に等しいわけではない。

 

魂は、天使さえも超えて進むことができる……

すべての被造物のあり方を超え出て、天使も到達できないほどのはるか高みにまで達した魂が、無欲の行いからなすことは、どれほどのものだろう。

時や国を超えて伝わり続ける音楽、絵画、写真、映画、物語。その人の人生のうちでは認められなかったとしても、後世においてその輝きが発見され、いつまでも人々を楽しませ、癒し、感動させるものがあります。

また、無名であっても多くの人に暖かい気持ちを送ったりする人、その気持ちに支えられ、後にユニークな行いによって世界に滋養を与えるような人が誕生したり、ごく一部の人にしか愛されなかったとしても、その者たちを確かに救い、孤独を癒し、生きる希望を与える魂もあります。

宮沢賢治の『虔十公園林』は、知的障害をもつ虔十がいつもバカにされているのですが、虔十は杉の苗ばかり植えるからますますバカにされます。しかし、バカにされても、杉をダメにされそうになっても、虔十は守るのですが、では虔十が報われるなにかがあったかというと、虔十は流行り病であっさり死にます。

ですが、虔十の杉は立派な林になり、村の子どもたちのかっこうの遊び場になり、旅人に憩いの木陰をもたらします。物語では、林で遊んだ子どもたちが立派な大人になる様子が描かれていますが、賢治はとくにそのことを書きたかったわけではないと思います。虔十も、報いや代償を求めて杉の苗を植えたわけではありませんでした。

何か良いことをしようと思ったわけでもないかもしれません。

誠に、人がなすことは人間には判断できず、ましてやそれが魂の行為となれば、善い悪いなど、どのような結果になるかなど、わからないものです。人間の優劣を人間が決めることなど、できないのです。

 

虔十の魂には、どのような疑いも、迷いも、闇もいっさいありませんでした。

エックハルトは、私たちの魂の内にははかり知れない知恵があり、その知恵とはイエス自身であると説きます。神自身である一つの透明な光のうちに魂は移され、神が魂のうちで神をもって認識される。そのとき、魂はこの知恵をもって自分自身とすべての事物とを認識します。

 

全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さはやかな匂にほひ、夏のすゞしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本当のさいはひが何だかを教へるか数へられませんでした。

そして林は虔十の居た時の通り雨が降ってはすき徹とほる冷たい雫しづくをみじかい草にポタリポタリと落しお日さまが輝いては新らしい奇麗な空気をさはやかにはき出すのでした。

 

無償の行為の神秘、魂の喜びの放射は、人々を幸せにします。

 

 

霊の自分を生きること、聖霊の導きを得ることについて、また書いていきたいと思います。

心があらゆる囚われから解放されて、ありのままの自分で、本当の喜びを表現して生きていけるように、何かヒントとなっていたら幸いに思います。

 

 

ふと思い立ち、祈りの言葉を呟いてみる。
未来は今よりもう少しましになる。
さもなければ、母が怒り、父が泣く。
長い不遇に耐え、誰も恨まず、
自らを罰するように苦行を求め、
未来の鋳型をこしらえた
慎ましい死者たちが悔い、嘆く。
歴史の網の目に絡むのは
偉人、聖人、天才ばかりではない。
与えられた役目を全うしながら、
その名を記憶する者もいない
男と女にわたしは救われた。
いかなる富もあの世には持ち込めない。
産みの苦しみも養いの労力も
息子、娘からは報われない。
天才の閃きも凡人の努力も

等しく忘れられる。
いかに生くべきか悟った時には
この世を去らねばならない。
それでも彼らは誰もいないところで
密かに祈りの言葉を呟いていた。
未来は今よりもう少しましになる。
自ら下ごしらえした
理性と技術を子どもに譲り
親たちは死なねばならない。
それでも彼らは
おのれが存在しない未来に期待をつなぐ。
この世の時間を生きているあいだは
誰にも勝利を語ることはできない。
偉大な英雄の時代は終わった。
今はただこの退廃に身を焦がすだけ。
目の前の災厄を生き延びるだけ。
(「自由人の祈り」7節/島田雅彦)

 

 

Sitara

 

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