この星で生きていく

僕は病みながら、無限の命を生きるのだ

僕は病みながら、無限の命を生きるのだ
砂漠の舞姫

 

窓から差し込む陽射しも、柔らかさというより強さを秘めるようになりましたね。少し運動をすると暑くなって汗をかきます。

実は数日前より、持病の治療で入院をしております。退院までは2週間から一か月ぐらいかかりそうです。以前の私だったら、病気になることは仕事を失うことだと固く信じていましたし、実際に撮影業は体力があることが前提だったので、病気があるという自分の弱さを受け入れることができませんでした。

どれだけ顕在意識・正しさ・現実に焦点をあてて生きていたことでしょう。

 

私の無意識の領域には、全体性からなる人生の計画や、人生の背景にあるものがあるのに、仕事ができなくなったら終わり、自分には価値はない、人に必要とされなくなったら生きていくことができない……そういった固定化してしまった価値観が、よけいに「自分はここから抜け出すことはできない」という信念を強くしてしまっていました。

でも、実際は夜空が無限に広がっているように、宇宙に眼差しを向け、はるか遠い星に思いを馳せ、宇宙の不思議を探究し続けても、決して神秘は途切れないように、私たち自身も無限の可能性と意識を持ち合わせている、それが本当の姿なんです。

 

ということで、しばらくセッションなどは今できる条件でということになるのですが、さっそくメールと退院後のオンラインでのセッションに参加をしてくださる方がいて、私も新しいチャンレンジができて嬉しいです。

 

入院中も、安らぎをもたらすこと、宇宙の不思議、身体がもたらす無条件の愛、人間の意識の広大さについて文章を書いていけたらいいなと思います。

どうぞよろしくお願いします。

 

手術の必要や、呼吸器をつけなくてはいけないわけではないし、当面の痛みも落ち着きました。

そういえばコロナウィルスの医療対応について人工呼吸器の数がどうかとか騒がれていましたが、人工呼吸器はとても装着するのが苦しいので、それに耐えられる人とそうでない人もまた分かれると思います。

 

院内は感染防止のために、普段より禁止事項は増えていますが、明るい雰囲気の病院で、とりあえず私は瞑想はし放題です。院内を鐘の音を聴きながら歩く瞑想をするのですが、何十分も歩いているので徘徊と思われないように看護師の方たちには一応お断りはします。院内危険人物になってしまうと大変ですよね(笑)

余談ですが、『中学生円山』という宮藤官九郎監督の作品に、遠藤健司が演じるアルツハイマーの徘徊老人が出てきます。円山少年の小学生の妹がこのおじいさんを好きになり、付き合うのですが、このとき「ひとりで歩くと徘徊だけど、ふたりならデートだもんね」という名言を言います。天使はここにいたのか、と思ったものです。

 

中学生円山

 

 

 

今日は『ティク・ナット・ハン 大地に触れる瞑想』(島田啓介訳/野草社)の「限りのないいのち」「生と死の波に乗る」を読み、歩く瞑想をしました。大地にキスするように、大地をマッサージするように、一歩一歩を味わいながら歩きました。

大地に触れる私の脚、呼吸する肺、すべては火地風水の4大元素によってできていて、そして私自身は物質を超越した存在です。数えきれないいのちの関わりによって私は今この瞬間、ここに顕現し、そして、安らぎと苦しみと怖れをもつ、この世界のどこにでも存在する生き物ともひとつです。

 

たとえこの肉体が滅んでも、私には影響がありません。桜の花びらが散っても、桜の木が死ぬわけではありませんから。私は海の上の波と同じです。すべての波の中に私はあり、私の中にすべての波があります。波が起こっても消えても、海という存在に変わりはありません。

 

この洞察に目覚めることができれば、寝たきりであろうとも無駄ないのちというものはありません。

もちろん、人には生きる権利もあれば死ぬ権利もあります。決して死を選ぶなということを人に強要したいのではありません。ですが、病む体であっても、死の病を負ったとしても、打つ手がないなんてことはありません。必ず生を意味あるものにするために、できることはあります。

そして教皇フランシスコが言うように、私たちは弱い立ち場の人から学ぶことがたくさんあると思います。

寄り添うというのは慈悲でもありますが、宗教的、倫理的な立場から言うと押しつけがましい雰囲気になってしまうことがあります。元々インドの古い言葉、サンスクリット語やパーリ語では、慈悲の「慈」は「メッタ」、「非」は「カルナ―」のことだとされ、「メッタ」は「人に安らぎを与えてあげたいと心から願う」こと、「カルナー」は「相手の苦しみを取り去ってあげられたらいいのになと心から願うこと」をいいます。

真実、人を憐れむ心、それが「心から願う」という言葉に表れていると思います。ここには「寄り添うべきものです」というような傲慢さはありません。

 

私のダルマの体(法身)と内面的な生活には、生も死もありません。この肉体が生まれる前にも、この肉体が滅んだあとにも、私の存在は見いだせます。今この瞬間にも、この肉体の外側に私の存在を認めることはできます。今この瞬間にも、この肉体の外側に私の存在を認めることはできます。私の寿命は八十年や九十年ではありません。一枚の葉やブッダと同じく、私の寿命には限りがないのです。この肉体が、時間と空間の中に存在する、ほかのいのちのあらわれと分離しているという考えを超えることは可能です。

 

もし、病気の子どもがいたら、またあなた自身が長く患っている病気によって苦しんでいるのなら、どうか自分や家族の誰か、生まれ育った環境を責めないでください。

私という存在は血縁と精神的な先祖と子孫のいのちの河の流れ全体であり、すべてとひとつです。家系を流れるエネルギーは愛の血脈です。家族の誰かに顕れた病気やトラブルは、家系の愛の滞りであり、それを癒し再びいのちの河を流れさせるために、無限の生命が教えてくれているのです。

 

自分というものを、長い時間の中でどうとらえているか。それがスピリチュアリティを生きるということです。

 

 

Sitara

 

 

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