この星で生きていく

身体症状のリーディング~どんな人の身体にも、神と聖霊が住んでいます~

打撲した右足

打撲した右足

 

 

先週、転んだ時に右足を打って打撲してしまいました。

このような時は、静かになれる時間をつくって身体症状の声を聞き、癒しの技法を用いてヒーリング・エネルギーを送ることをします。もちろん、一般的な治療による対応をすることもあります。エネルギー・ヒーリングやアカシックリーディングと、西洋医療は決して対立するものではありませんし、今後の科学の進展も目を見張るものがあるでしょう。上手に、握手させるように仲良く両者を使っていくとよいと思います。

 

実際に、もしあなたが身体の声を聞くことができたら、どんなことが起こるか想像してみてください。

身体症状の声とは、あなたの人生、また、あなた個人を超えた魂の物語の一端として現れているものです。たったひとつの身体の不調が、それだけにはとどまらず他の部位の症状と重なり、そしてさらには感情や思考にも影響を与え、やがて仕事や現実の問題にまで時には影響を及ぼす、ということを経験したことがある人はいると思います。

 

聖パウロの言葉に、「知らないのですか?あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿って下さる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」、というものがあります。

この宇宙のすべての被造物は創造主である神によって遍くつくられ、あらゆるもの……それが物質であっても……に神は内在しておられます。神が存在し、聖霊が存在するならば、必ずどんな人にも神は住んでおります。

人間の愛に限界があるのに対し、この世の中で一番、無条件に私を愛し、どのような時も暖かく見守って下さる方がこの身体に住んでおられるのです。

 

また、人間の肉体は星からできたことを考えれば、この宇宙を司る神法を身体は生きています。宇宙が神の反映ならば、私たちひとり一人も神の反映です。神とは秩序のことです。自分よりも広大な神のことをわかることはできませんが、それでも、沈黙し、魂の静謐の中に浸ることによって、私たちのスピリットは神に向かって伸びていくでしょう。

霊性の道を歩む者にとって身体症状とは主に、神に向かうか、それとも自分勝手な道を歩むか、という問いかけのようにも思います。

 

もちろん、身体症状のリーディングは神を信じない人にも十分に有効であり、私たちの身体は、自分の人生、仕事、人間関係、考え方が、どのように身体と健康状態に影響を与えているかということを懸命に伝えようとしてくれていますから、自分の感情や身体からのメッセージに耳を傾けるということは、本来あなたが歩むべき人生へとあなたを導いてくれるものだと言えます。

 

偽りの人生を送るのはやめましょう、それは他人から強いられた人生です。自分を殺すのではなく、あなたを抹殺しようとしているものを追い払いましょう。体の内から発せられるメッセージに耳を傾けることが、自分の人生を救うことになります。
(『体が伝える秘密の言葉』/序文より)

 

 

打撲が意味しているものは?

ではさっそく、私の右足の打撲を参考にリーディングを行っていきたいと思います。

身体症状のアカシックリーディングで大切なことは、病院に治療に行くときのように症状を一つの事象として切り離して解決しようとしないことです。

リーダーには、【身体=全体性のネットワークモデル】という認識がありますから、身体とは、空たるアカシャ領域より生み出される、仮想現実としてこの身体が存在しているという理解があります。

 

つまり、身体症状をリーディングするということは、普段多くの人が行っているような、切り離された断片としての自分として自身を認識するのではありません。特定の意図を持ち、空たるアカシャの領域に触れることで、その人が持つ個性化の傾向性にそった、可能性と並行次元・時間軸のエネルギー、先祖の愛の蓄積のエネルギー、また場のエネルギーなどを直接体験します。

要するに、打撲のような一部分のケガであっても、「身体は全体として何を表そうとしているのか」という視点でリーディングをします。

 

私の打撲は先週の金曜日に、ふとよろけたことがきっかけで、思いのほか強く打ってしまったことが表向きの原因です。

これが、つい転んでしまったということであっても、お酒が少し入っていたからという理由であっても、偶然というものは存在しませんので、内在する神からの、大いなる叡智からの呼びかけとして捉えます。

 

まず、打撲というのは皮膚が破れずに内部の組織が損傷した状態を言い、とても疲れていたり、体力が低下していたり、人生によって傷つけられたと感じるとき、心が受けた打撃が身体に現われます。

事故に見えるようなものであっても、それは神が私たちの語りかける手段ですから、ケガをした部位や重大さにも注目をします。

 

そして、身体の各部位には、感情や思考、記憶、エネルギー、経験、取りがちな態度や傾向などが保存・蓄積されています。例えば、足首下方の右足の打撲の場合は、このような要因が考えられます。

 

 

考えられる要因(両足共通)

間違った方向へ進むこと。直観を無視する行為。戸惑い。途方に暮れる思い。頼りない感覚、現実離れした感覚。行き詰まり感。身動きが取れない感覚。人に借りがあるという思い。全体像を見失うこと。優柔不断。ある状況に対する怖じ気。

 

右足

重すぎる責任。怒り、苛立ち。もどかしさ。激怒。物質面や状況から得られる利益ばかりに気をとられること。一歩下がって成り行きにまかせるよりも、力づくで事態を収めようとすること。墓穴を掘るような行為。

 

 

6月の頭に退院をして、まだ通院をしているのですが、少し仕事も再開し、その中にはコロナの影響による今後の社会変化もあいまって、「このままではいけない」という気持ちがありました。

また、病気を抱えてこれからどうしたらいいのかということや、先週倒れた大叔母のこと、高齢の両親や障碍のある弟のことなど、いつのまにか不安に思う気持ちが蓄積していって、自分で何とかしなくてはと大きな仕事を引き受けたり、かなり力づくでなんとかしようとする自分が確かにいました。

 

私は昔からグランディングが弱いこともあって、よく転びます。足にケガを頻繁にするのです。自力で一歩踏み出していく力は非常に大切ですが、サバイバル能力が非常に弱い人の場合、世間一般のやり方で自身を鼓舞しても、四苦八苦するだけで上手くいかない場合があります。私の場合は自分だけでやろうとすると、必ずストップがかかります。

直観を無視し、間違った方向に進もうとしているということも教えてくれていましたし、人にも神にも頼ることをあまりせず、自分で背負いこんでしまう、弱さを互いに見せられない、心から支え合うということがない、そのような家系的な愛情の滞りもあったのだと、改めて気づきました。

 

私自身を癒すことは、家系を癒すことです。先祖だけではなく、子孫も癒すことになります。

 

委ねること、真の従順について、もう一度、腹に落としてそれを生きていくことを始めるときだと、患部を癒しながら知ることができました。

 

 

真の従順について

祈りにおいて、また霊性を生きるということに関しても、神がすべて行ってくださるという受身的な態度と、自分自身の努力だけで何とかするという態度の違いを見分けることは大切です。

自分だけを頼みとするという現代的な考え方を好む人からすると、スピリチュアルな人や、祈る人に対して、自分ではどうすることもできない無力な人だという印象を抱くこともあると思います。

その印象は決して間違っているとはいえないと思います。なぜなら、努力のすえ自分でもどうにもできないもの、どうしても個人では変えられないような状況のとき、自分を徹底的に無力だと感じ、すべてを失い、剥奪され、そうして祈るという気持ちが高まってくるからです。

ですが同時に、霊性を生きる人たちにまったく意志の力がないかといったら、それは間違っています。むしろ、彼等は非常にクリアで強力な意志を宿しており、それを用いて創造の力を揺り動かしているのです。そこから、失敗してもあきらめず、どのような誹謗中傷にあっても挫けず、断固としてやり続け、目指していることを実現するのです。

 

イエスが十字架に磔になるとき、「御心のままになさってください」と主に祈りを捧げたのは、自分自身の意志を否定したのではありませんでした。

自分の人生についての神の御計画に、自らを完全に委ねるためには、自分の意志を完璧に支配している必要があるからです。イエスは神の通路であり、ただ唯一従うべき志向なる神の法にすべて身を捧げました。これほどまでに意志の力を発達させた人はほとんどいません。

マイスター・エックハルトは『神の慰めの書』の中で、真の従順について、このように述べています。

 

 

もしひとが従順からして己れ自身の外に出るならば、その時にはこんどは否応なく神が彼の中に入って来られるにちがいない。なぜなら、ひとが己れのために何物をも欲望しないときは、神が彼のために欲望し給う……まさに御自身のために欲望し給うかのごとく……に相違ないからである。もしわたくしが、わたくしの意志を捨ててこれを長上の手に委ね、わたくし自身のために何物をも欲望しないならば、神が私のために欲望して下さる。

私が私自身を捨てるならば、神は必ず、御自身のために欲望し給うほどの一切を……それより少なくでもなく、それより多くでもなく……しかも彼が御自身のために欲望し給うのと寸分違わぬ様式をもって、私のために欲望し給うに相違ない。(略)さればこそ聖アウグスティヌスは、「忠実な下僕の熱望するのは、己れの見たり聞いたりしたいものが己れに語られ与えられることではない、彼の第一に欲するのは、いかなることがもっとも多く神の御心に適うかを聴き知ることである」といったのである。

最強の、ほとんど一切を獲得し得べき全能の祈り、およびいかなるものにも勝る至高の業作、それは虚心から出るところのもののほかにはない。心が虚であればあるほど、そこから出る祈りと業作とは、より強力なより高きもの、より有益な賛美すべき完全なものと成る。実に虚心こそ一切の事をなすことができるものである。虚心とは何か。虚心とは、何物をも背負わず何物にも乱されず、何物へも結ばれないもの、己れの好みをいかなる方法にも結び付けず、己れの利益を何物にも思わずして、ただひたすらに神の御意志に身をまかせ、己れの意志を棄却し切った心である。

 

 

自分に可能なあらゆる手段を、神から与えられた理性・意志・感情を用いて、同時に内なる神に導きを求めること。

人間にもたらされた能力と、神の能力を理解し、両者の調和が得られるように努め、自らの意志が神の意志に同調するように日常のすべてに神の現われを見ながら、委ね、導かれていくこと。

 

真理について探求することは楽しいことですね!

神とは宇宙を貫く法であり、あらゆる生命の背後にある創造力。神は完全なる愛であり、英知であり、宇宙のありとあらゆるところに遍在する存在である。神はあらゆる生命を満たし、あらゆるものの内部に在り、あらゆる存在するもののすべてです。

 

 

Sitara

 

 

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