この星で生きていく

あの日のキリスト~霊的訓練の目標と難しさについて~

弱い者に手を差し伸べる

弱い者に手を差し伸べる

 

自らの意識の奥深くに眠る永遠性に触れ、霊性を発掘し、神性と呼ばれるものをこの人生で表したいと望むようにいつしかなりました。

 

最初の頃は、こう言っては何ですが、いわゆるライトなスピリチュアルを行っていたこともあります。しかしそれでは満たされなかった私の中の渇きは、スピリチュアリズムについてもっと探求をしたいと思い、いまだ未熟ではありますが、自分のなかにある“未知なる部分”、この世界の神秘についてさらに深く触れたいと、やはり今でも切に願っているのです。

 

忙しく過ぎてしまう日常に埋没して、やがて死ぬことを思うとどうしても悲しさがつのります。大切な人との別れ……私にとっては、けっして私を見捨てないこの世の唯一の人間であろう母との別れ……それを思うとどうしようもなく悲しくて、そのような感情的に揺れがちな心も変わらぬものを感じたい気持ちをいっそう高めるのです。

 

私の中に、今この私をあらしめている連続した意識があります。それは私の魂が生まれてからはるか宇宙を旅し、輪廻し、そこで体験した様々なことをすべて覚えている……それはまるでひとつの歌のようで、この壮大な楽曲を私の意識はこの人生では完成させないだろうこともわかっています。

 

私の人生がどのようなものであっても、そこで奏でるメロディーがせめて宇宙と響き合い、また他のメロディーを奏でる人たちと、歓びのハーモニーを奏でられますように。悲しみや痛みであっても、いつかより立体的な光を発するであろう濃い影を、祝福できますように。

 

私はあまり上手く生きられないし、器用でもありません。病気がちだし、心的にも脆弱さのある自分をいい加減わかっていて、純粋に自らの霊性を生きたいと望んでも悪魔の誘惑にのってしまう自分もいて、ある種、今はまだどうしても変えられない自分を受け入れていく覚悟ができてから、せめてブログでは誠実な言葉を綴ろうと思っていました。

 

何でも置きかえ可能な時代、いくらでも加工できるインターネットの世界、その技術は今後ますます発達するでしょうけれども、ブログは私にとっての精神の解放区です。

 

とても嬉しいメッセージをいただいたのですよ。私の書くブログを楽しんでくださっていて、その方の言葉を読んでいたら、出会い、つまり万有引力とは、引き合う孤独の力であるという谷川俊太郎さんの言葉を思い出しましたよ。

 

 

霊性を生きる、その根拠とは何か

あらゆる存在の神的な「根拠」は霊的な「絶対者」であり、それは推論的な思考によって説明しようとしても、いわく言いがたいものなのだが、(事情が許しさえすれば)人間が直接体験をして現実化することもできるものなのである。この「絶対者」はヒンドゥー教やキリスト教の神秘用語で表現すれば無形の神である。人間の最終到達点、人間存在の究極理由は、神的な「根拠」と一体になってその「根拠」を知ることにほかならない。その知は、「自己を死なせ」て、いわば神の入ってくる余地を設けようとする覚悟ができている人にだけ訪れることができる。
(『永遠の哲学』/オルダス・ハクスレー)

 

霊性を生きるものの目標は神との合一であり、キリスト者であればキリストの道にならう生き方をすることでもあります。それは徹底的に自分を“空しくし”、受動的な明け渡しの生き方をすることでもありますが、どの世代にも、人間存在の最終目標である神的な「根拠」と一体になるものがごく少数である理由は、「自己を死なせ」ることの難しさです。

 

ですが、合一的な知に達するためのきかっけは、感性豊かな人たちが何らかの形でいったい自分は「何もの」であるかを悟るようになるまで絶えず授けられているのですから、日常のささやかな物事に悟るヒントは隠されています。日々の行いのなかで神と響いていくために、気づき、エゴを手放していく霊的な「道」であると言えます。

 

聖者とは日常の行いがすべて神の御心に叶っている人のことを言いますが、聖者たちは真に私たち人間の一生活の一瞬一瞬が危機の瞬間であることを知っています。

 

 

いかなる瞬間においても私たちは、死と霊の闇に至る道と、光と生命に達する道とを選ぶ重大な決定を迫られるからだ。もっぱら世俗的な利害を採るか、永遠の秩序を選ぶか、自分個人の意志か、ないしは自分の人格の何らかの投影である意志に従うか、「神」の意志に従うかの岐路に私たちは常に立たされている。
(同著)

 

 

「森のイスキア」で困った人を援助されていた佐藤初女さんは、敬虔な信徒ですが、初女さんの本を読んでいてハッとしたことがあります。

 

それは、真夜中にイスキアのドアをノックする音が聴こえた時、真夜中ですから初女さんは怖くて出たくなかったのですが、夜中に苦しくて助けを求める人もいるし、その扉を開けることも神様が望まれていることだとわかって、自己を死なせ、ドアを開けるのです。

 

もちろん都会のような場所や治安の悪い場所では適切な判断が必要だとは思うのですが、初女さんのように自らを空しくし、神が入ってくるスペースを持っている方は、「これは開けるべきだ」と“ただわかる”のです。それは理屈でもなんでもなく、本物の直観と言えます。

※インスピレーションには「直観」と「直感」がりますが、経験則によるインスピレーションを「直感」というのに対し、まったく未知のところからの閃きを「直観」といいます。

 

 

オルダス・ハクスレーは霊的訓練の目標として、以下のものを挙げています。

 

 

・自分と「実在」との間に「神」を翳らせる障害がもはやなくなって、自分をはじめとするすべての存在の神的「根拠」を絶えず意識できるようにすること。
・目標に達する手段として、悪意や貪欲、自己主張や故意の無知をぬきにして、日常生活をその最も瑣末な面に至るまで一貫して愛と理解をもって生きる。

 

 

霊的訓練とは、たとえば軍事訓練のように目標が限定されているわけではないので……つまり「神」を愛する者には、一瞬一瞬が危機であるがゆえに、霊的訓練は軍事訓練とはくらべものにならないほどむずかしく、徹底したものとなる、だからこそ目標を達成するものはごくわずかなのです。

 

例えば、特攻隊は戦時下という特殊な状況において国や愛する者のために自身を無私ならしめました。その献身は尊いものですが、一方、霊的訓練は人生のすべての状況において自身を無私と化せしめるものなので、非常な困難を要します。

 

本当に霊性を高めたいと思えば、「事実の本質」とは何であるかについての私たちの信念によって左右されるのですが、分子や原子を深く見ていくことでも、物質でさえミクロの世界では譲り合うことで成り立っていることがわかります。物質でさえ無私であり、互いに関わり合うことで存在し、自分というものがないことをわかっています。ですから、聖者は「おのれの敵を愛する」のです。

 

神への合一的な知にまで勝ち進むものは、それぞれ非常に異なる出発点からそれぞれの道を歩み始めますが、天におけるように地においても神の御心がなされるようにと祈る、合一的な知識を所有している霊的な人物は驚くほど似ています。

 

彼等の行動は一様に無私的で、いついかなるときも平静、いかなる瞬間でも感情や思考やこの世の体験を幻だと知っており、真の自分が何者であるかを悟り、宇宙やその霊的「根拠」との自分の真実のつながりがいかなるものかもわかっています。

 

 

あの日のキリスト

私たちが肉体を持ち、あらゆる制限が課される地上に生まれ、その人生で霊性を生きることの意味は、制限の中で神の愛を表すことにあります。

 

神の愛は無限なものですが、神が無限のままであるならば、それは抽象的なものに留まってしまい、私たちとは無関係なままです。愛というのは特別なものではなく、生きとし生けるものにとって呼吸のように当たり前に必要なものですが、愛は相手に対して伝わる形で具体化されてこそ、愛となるからです。

 

このことを柳田敏洋神父は、著書『日常で神とひびく②』の中でこのように言っています。

 

 

神が人となるという受肉の神秘は、受肉というあり方をとおしてしか神の愛を表すことができないということです。無限なものが無限でなく限定されていくところに、すなわち無条件な愛の思いが条件を取って具体的なものになるところに、愛があります。(略)条件や限界があるにもかかわらず、そこで無条件、無償ということが生きられるとき、そのこきこそ、愛は神の愛、真実の愛として現れるのです。真の愛とは「条件の中で無条件を選んでゆくこと」です。ここに受肉の神秘があります。

 

 

私が高校2年生のとき、大きな心臓の手術をしました。

 

退院したすぐ後に修学旅行が控えていたのですが、何分、体力が戻っていないこともあり参加をどうするか両親も悩んでいました。けっきょく母の「記念だから」という意向を聞き入れて参加をしたのですが、クラス全体で移動するときにも息があがってしまいます。高校生という元気な盛りの時、生命力に溢れる彼女たちと、弱っている私では、大きな差があったのです。

 

ゆるい傾斜ながら大きな坂を上っているとき、私は少しずつついていけなくなり、みんなとの距離はどんどん離れていきました。もうみんなが小さくなるぐらい離れてしまったのですが、当時、自分の殻に閉じこもり、内向きで、誰とも打ち解けなかった私には友人がいませんでした。クラスの中でも変わった人という位置づけだったと思います。

 

大声で「待って」と呼びかける勇気もなく、きっと自分に構う人もいないだろうとあきらめた気持ちもあり、だんだん寂しくなってうつむいて自分の足ばかり見て歩くようになりました。クールに孤高を生きているように見せたくても、力もない、ひとりぼっちの惨めさが募ってきます。

 

ですが、気がつくと私の隣を歩いてくれている女の子がいました。クラスメートですが、とくに親交があったわけではありません。彼女は、とくに言葉を発せなかったと思います。それでもゆっくりとしか歩けない私のそばをずっと一緒に歩いてくれました。

 

あの時のことを思うと、今でも暖かい気持ちがハートに溢れてきて涙ぐんでしまいます。

 

先に歩いていたのに、わざわざ後ろの方まで戻ってきてくれたのです。友人でもなんでもありませんでしたし、クラスの変な人的な私につき合うことで彼女の仲間たちからどう言われるかもわかりません。女子高でしたから、女の子というのはグループや派閥というものをつくるのですね。

 

そういうことを気にせず、彼女は優しさを私に分けてくれました。キリストは99匹の羊をおいても、迷子になった一匹を探しに行きます。彼女の中の生きたキリスト……

 

私たちの心が意志する行為は……

 

神の摂理が意志する物質的な状況である場合もあり、この美しい宇宙を維持するために神によって不断に働きかけられているもので、まるで神が彼女の心に慈しみの羽で触れたかのように、外側から神の心が働きかけることもあります。シュタイナーなら、天使が羽で触れたとき、と言うかもしれません。

 

ですから、そのような体験をした人は、それを恩寵や奇跡として瞳に映じます。

 

あの日、私は彼女に、そして人間を超えた神の心に生かされていました。

 

神の心が届く有限な人間の心に、意味深いと思われるやり方で、私たちを人と人、自然、物、出来事と交信させ、その体験をした者は、テレパシーに似た仕方によって神の心と交流をしています。

 

聖アウグスティヌスはの言葉を紹介します。

 

 

私はあなたを求めて通りを、広場を歩きまわったが、見つけることはできなかった。なぜなら、私のなかにいるあなたを空しくも外に求めていたからだ。

 

 

人は天が荒れるとき、災害や疫病が起こるとき、神の怒りだとしました。ですが、山や空や風の中を探しても神はいません。神は、私たちの中にいて、それは奇しくも2000年前に書された『ヘルメス文書』のなかに、すでに知らされています。

 

少し長いですが、最後に、キリストもアレクサンドリア大図書館で学んだというヘルメス・トリスメギストスの霊性への誘いを紹介してさせてください。

 

それは私たちを、時間を超えて永遠に、単一の事象を超えてすべての事象に、ここからすべての場所に、自己を超えて飛翔し、神との合体へと誘うために歌い上げられたメッセージです。

 

 

『ヘルメス文書』

自分が神と同等にならなければ、あなたは神を理解することができない。似たものにならなければ、似たものが理解できないからだ。からだから自己を解き放して無限の大きさになりなさい。

あらゆる時間を超えた地点に身をおき、永遠になりなさい。そうすれば神を理解することができる。

不可能なことは何もないと信じなさい。自分が不死であり、すべての芸術、すべての科学、すべての生き物が理解できると考えなさい。

最も高いものより高く昇りなさい。一番低いところより深く降りなさい。自分が地上、海中、空中のどこにも、またまだ生まれていない階段、子宮の中、青年期、老年期、死、死を超えた階段のすべてに同時に存在すると想像し、創造された一切のもの……火、水、乾いたもの、湿ったものなど、あらゆる感覚をとらえなさい。

もし自分の中に、同時に、時間、場所、物質、質、量すべてが包含できたら、あなたは神を理解することができるだろう。

 

 

Sitara

 

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