この星で生きていく

聖霊に満たされた人

ベトナムの禅僧ティク・ナット・ハン

ベトナムの禅僧ティク・ナット・ハン

ティク・ナット・ハン
(画像は「ティク・ナット・ハンの愛しのコミュニティ」様よりお借りしました)

 

昨年の秋、私は久しぶりにマインドフルネスのファシリテーターで精神保健福祉士である島田啓介さんのイベントに参加をしました。

会が終わってインドカレーを食べに行き(素敵なお店でした!)、そこで聞いたティク・ナット・ハンの話がとても印象的でした。マインドフルネスを世界中に広めた禅僧ティク・ナット・ハンは、その卓越した教えで影響を今なお与え続けています。2018年11月に40年にわたる亡命生活を終え、今は祖国で弟子たちと暮らしています。

脳卒中で倒れて後、言葉はうまく話せないそうですが、変わらず世界中から老師のもとに人は訪れ、そして少し身振りなどでコミュニケーションをとるぐらいだったとしても、老師を前にした人は皆、自分の存在が大きく変わるような力を感じるのだそうです。

私は、ティク・ナット・ハンという人は真に聖霊に満たされた人なのだと、話を聞いていて思いました。

 

 

明日ではもう、手遅れかもしれないから

本当は怖れや不安を私にもたらしている執着から、今すぐにでも自由になって、何の怖れも守る必要も感じず、伸び伸びとハートをオープンにして、自分の考えで自分のやり方で、好きなように振る舞い、行きたい所へ向かっていきたい。

だけどそれが簡単じゃない場合もありますよね。自分に勇気が足りなくて、向き合わなくてはいけないことがなかなか直視できないときもあります。

そんなとき、せめて今日できることとして、精いっぱい一日を生きてみませんか?精いっぱい生きる日がもう一日与えられている。それはなんて幸せなことでしょうか。

 

ところが人はときどき、この無常というものを忘れてしまいます。すべてのものは無常であると頭ではわかっていながら。いつの日か愛する者が病気になり死んでしまうかもしれないことを忘れてしまうのです。

私たち自身がいつかは死ななくてはならないことも忘れてしまいます。自分は永遠の存在だと思いがちなのです。だから、今を美しく生き、本当の意味で愛する者を大事にするために必要な悟りを得ることができないのです。

(略)

もし無常についての悟りを持ち合わせていなければ、最愛の人がいつかは死ぬということ、だからこそ今日、その人を幸せにするために力を尽くさなければならないことが理解できるはずです。

明日まで待っていてはいけない。明日では遅いかもしれない。無常という悟りにしたがう生き方を知っていれば、たくさんの過ちを犯さずにすみます。今この場で幸せでいられます。

今日、最愛の人を愛し、慈しみ、幸せにしてあげられるのです。そして、今このときにしか与えられていない大事な生を、「未来に向かって走る」などという口実のために失ったりしないのです。

(ティク・ナット・ハン『あなたに幸福が訪れる禅的生活のこころ』より)

 

若い頃から仏道に励み、命の尊さや一瞬一瞬をすべて大事にすることを実践してきたティク・ナット・ハンは、3度の戦争における平和活動のさなか、たくさんの愛する者たちを失いました。

どれほどの苦しみや悲しみ、怒りを経験したでしょう。ですが決して自分や他人を傷つけるような暴力の芽を生じさせることはなく、それらの痛みをすべて堆肥にして、美しい花に変えました。

ティク・ナット・ハンはブッダや観音、天使や聖霊に来てくださいとお願いするようなことはしていないと思います。真剣に、平和と愛を実践する覚悟と努力が、盲目の闇に囚われない明晰な思考が、老師の中を聖霊で満たしていったかのように私は感じます。

真に霊性の高い人にもっとも肝要な奉仕は、その人の放つ輝きです。

「存在の力」とは、統合された肉体、精神、霊魂のエネルギー場が発する、きわめて真実で強力な、その人の内面から発するオーラのことです。肉体の目では見えなくても、確かに心で感じることができ、接した者たちの精神に作用し、そのエネルギーが強力で透明であればあるほど、国や時代を超えて、言葉という形でさえ人の魂を揺さぶる強い力を持ちます。

私は、もしかしたらあの時ティク・ナット・ハンの本に出会わなければ、今ごろは死んでいたかもしれません。

 

つい、私は思ってしまいます。もっと多くの善意と寛容があればこの世は救われるのに、と。ですが、真実はそうではありません。この世界を救うのは善意や寛容ではなく、明晰な思考です。

自分と意見を異にする人を間違いだと思い込む人が寛容さを表したとしても、それは恩着せがましいにすぎませんよね。皆を結ぶどころか分裂を生み出し、この明晰さのない正しさへの信念が、戦争も生み出しています。

学識ではなく神秘そのものである真実に開いていく明晰性、ティク・ナット・ハンの言葉を読むと、いつも私はそれを感じて、もちろんこの人のようになんて決してなれないけれど、その光の道筋を私も歩んでいきたいと思うのです。

今、身動きできないとしても、どうしても不安が胸を締め付けるときも、愛すべき存在、本当に大切なもの、場所、仕事、そういったものを思い出し、今日一日、精いっぱいになって生きてみる。結果はわからない、でもその機会が自分に与えられていることに、感謝をします。

 

 

聖霊を経験する

同じく聖霊によって満たされた人物、パラマハンサ・ヨガナンダは『人間の永遠性の探求』の中で、聖霊についてこのように述べています。

 

あなたがたには、神を知り、神と一つになった人の導きが必要です。イエスは、ひとのいない所で神に祈れと教えてきました。外界の刺激を隔離した内的静寂の中に入るとき、あなたは聖霊を経験することができます。

魂の静寂の中に、瞑想の木陰に、神との永遠のロマンスがあります。しかし、あなたは、神と富との両方に使えることはできません。おのれのすべてを神に献げなさい。神こそあなたの永遠の恋人であり、神は、あなたがたすべての人々の愛を求めておられるのです。

 

すべての被造物は神の知性である波動でできていますが、この知性を持つ波動が聖霊です。言い換えると、聖霊とは、遍在するキリスト意識が外面的活動をするために顕現したエネルギーです。

また、聖書のなかでは「ことば」あるいは「助け主」という名でも語られ、ヒンズーの聖典では「オーム」と呼ばれます。

この隠れた聖なる力は、創造活動を波動エネルギーで顕現し維持している根源の原動力であり、唯一の行為者です。この聖霊と実際に接触してそれを経験するための具体的な方法が瞑想なのだ、とヨガナンダは言います。

確かに、ティク・ナット・ハンも生きることのすべてが瞑想であり、どのような細やかなことにも気づきの光で照らし、読経や祈りだけではなく、多くの詩を書くなど、魂の静寂の中で聖霊との関わりを深めています。

至福の助け主である聖霊は、ヨハネ福音書によれば「父がわたしの名によって遣わされる助け主、すなわち聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしが話しておいた事をことごとく思い出させるであろう」と説明されます。

そしてティク・ナット・ハンは『イエスとブッダ』の中で、聖霊についてこのように説明をしています。

 

「み名をあがめさせたまえ」。これはたいへん強烈な教えです。神がそこに現前するためには、すべての観念を捨てなければなりません。聖霊は私たちのなかにある神のエネルギ―であって観念やことばではなく、心の集中(注意)のあるところに現前します。理解があるところに聖霊が宿り、愛と信仰があるところに聖霊が宿ります。聖霊が現前すれば、私たちはみな気づくことができるのです。

 

本物の信仰と愛のある人の瞳が輝き、しぐさのひとつひとつに徳を感じるように、聖霊が宿った人というのはマインドフルネスのエネルギーを持った人です。ある日霊力に目覚めるとか、オーラが見えるとか、そういうことではなく、生活の中でしっかりと育まれ、その人の中に根付いてきた、本当のスピリチュアリティです。

ティク・ナット・ハンは、「毎日の生活のほとんどをマインドフルにすごすことが、自分のなかの聖霊を育てる最高の方法」だと言います。

 

 

沈黙と祈りと孤独のうちに聖霊を受ける

アントニー・デ・メロは『何を、どう祈ればいいのか』のなかで聖霊についてこのように述べています。

 

私たちは聖霊に満たされた人物をこそ必要としている。聖霊は人物を通して働く。救いは人を通してもたらされる。

 

そして、聖霊とは人の側のどのような努力によっても産み出されるものではなく、人間の側でできることがあるかといえば絶無に等しいのだそうです。なぜなら、聖霊は父なる神のまさしく無償の賜物であり、私たちにできるのは、聖霊が来られるのを待つことのみなのです。

苦しいときは神や天使に祈り、その加護を求め、早く望む結果が出て欲しいと癒しや儀式を行うことがありますが、人間というのは待つという事が苦手なのですね。

ですが、聖霊は待つ者にのみ与えられます。来る日も来る日も神とそのみ言葉に祈りをもって、そこの心をさらし続ける者に、生産性重視の名にはまったくの時間の浪費としか映らないものに何百時間も投資して惜しいと思わないものに、聖霊は与えられる……

たしかに、ヨガナンダも弟子のダヤ・マタも、ただ神、聖母への愛だけで見返りを求めるような心はありません。

ティク・ナット・ハンも全力で涅槃を愛し、そこから自分だけにとって都合のよいものを具現化しようという心はありません。

本当に霊的な人というのは、小さい願いというのは持っていないのではないでしょうか。誰よりも細やかさを持ち、区別なく命を愛し、自分を超え全体のために祈り、行動をします。

 

私の第一の目的は神を喜ばせることです。私の手は神をたたえて祈るために使い、私の足は至る所で神を探すために使い、私の心は、いつもいっしょにいてくださる神を思うために使います。何を考えるときも、まず神を迎え入れなさい。平安なる神を、愛なる神を、思いやりなる神を、理解なる神を、憐れみなる神を、英知なる神を、あなたの心の王座に迎えなさい。
(パラマハンサ・ヨガナンダ『人間の永遠性の探求』より)

 

このように熱心に神を愛するもののもとに聖霊は訪れ、その人自身も、その人の目的も、いよいよ輝いて、他の人々に希望を持たせるのでしょう。

 

 

Sitara

 

 

オーラクレンズ、カルマクリアー、
ディヴァイン・ヒーリングなどの個人セッションを行っています。

★個人セッションについてはこちらのページをご覧ください。

★メッセンジャー・オブ・ライトについてはこちらのページをご覧ください。
「光の高次元集団メッセンジャー・オブ・ライトと共同創造する聖なる愛のヒーリング」

★オーラクレンズ、カルマクリアーに関する説明はこちらをご覧ください。
「永続するヒーリングを可能にするために」

★天使、大天使、アバター、ハイヤーセルフなど高次の存在とともに行う多次元的なヒーリングは以下のページをご覧ください。
「ディヴァイン・ヒーリング・マスターキー」

★お問合せ、お申し込みはこちらのページからお願い致します。

 

 

関連記事一覧

  1. Larネオナチュラル ヒーリングローション
  2. 胸骨の中心の痛みについて
  3. 苦しみのなかで、どうしたら救済を信じられるのでしょうか?
  4. 祈りは天使の翼に乗って神の祭壇に運ばれる
  5. スライス・ヴュルフィングの人魚姫
  6. おまえ自身をこの世に捧げるのだ
PAGE TOP