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依存症に苦しむ人たちへ①~人はなぜ依存症になるのか~

依存症

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先日、清原和博さんの独占手記を読みました。もうすぐ執行猶予が明ける清原さんの、薬物依存症である自身の気持ちが綴られていたのですが、私も同じく依存症に苦しんだ経験があるので書かれていることにとても共感をしました。

 

記事には清原さんが、周囲にもうすぐ執行猶予が明けるねと言われるのが嫌で仕方がないこと、明けたら自分が何か動き出すのではないかと周囲が期待していて、それがプレッシャーであることなどが書かれています。

 

 

文芸春秋の記事「清原和博 独占手記|執行猶予が明けるのが怖かった 薬物依存症との1595日」

 

 

逮捕されてから4年以上たっても自分が変わった実感がないことや、今も薬物への欲求が消えないこと、鬱病がひどくて起き上がれないことや、悪夢を見ることなど……私は薬物依存ではなく摂食障害でしたが、嗜癖している物への渇望が自分ではどうにもできないぐらい断ち切れない気持ちが本当によくわかります。

 

自分自身、依存症にしっかりと向き合いたいと思いますし、なぜこれほど酷い苦しみを招くものに人は耽溺するのかにも関心があります。とくに摂食障害に関しては、ワガママ、ぜいたく病だと思われ、自身もそう思って自分を責めるのですが、摂食障害は緩慢な自殺であると私は身をもって言えます。

 

同じように孤独に苦しむ人たちに何かできたらと思い、今回から定期的に依存症についての記事を書いていくことにしました。

 

依存症についての理解と分析だけでは癒されることはないので、あくまで私が支えとしてきたものですが、自分に価値を感じ、自分が愛され生きるに値するのだと思わせてくれた救いとなったものも紹介をしていこうと思います。

 

 

 

骨の髄までしゃぶりつくす依存症の怖さ

私が摂食障害の症状を発症したのは高校一年生の頃でした。最初は拒食からはじまり、やがて過食に転じたのですが、過食をすることで苦しい気持ちを紛らわせるつもりだったものが、症状が深刻になるにつれて過食をするために生活をコントロールするようになっていきました。

 

自分が主なのではなく、依存症が私の主人になったのです。

 

物質に依存する場合、お金がかかります。私の場合ですと食べ物を買うために収入を得る働き方をしなくてはなりませんでした。精神的にも恥や罪悪感、理想と現実のギャップに苦しみ、家族にもたくさんの嘘をつき、周囲には普通の元気な人のふりをして付き合い、ひとりになると嗜癖に耽溺します。

 

もともとあった精神疾患も悪化し、鬱や離人症、妄想、アイデンティティの不安、神経症や醜形恐怖など、気持ちの休まるときがありません。この世に本当に安らげる場所も、人も、どこにもないのです。

 

信頼のある関係性を築くこともなかったので、とても孤独でした。何とかしたくて瞑想やヒーリングを習い始めましたが、慢性化した痛みはそう簡単には癒えません。幼い頃の傷を抱えたままだったので、拒絶に怯え、少しでも否定されたり、自分に価値がないと思わされると、せっかく安らいだ気持ちであっても一瞬にして心と頭に重しがかかり、脳がちりちりとして落ち着かなくなり、苦しい気持ちを紛らわせるために食べ物を詰め込んで忘れようとします。

 

やがて脱水症状、電解質の低下、腎臓や肝臓へのダメージ、皮膚の状態の悪化など身体にも影響が現れ、何度も自殺を企て、実際に自殺を試みるようになります。生きていても絶望しかなかったからです。幸い、私の場合は見つけて助けてくれる人がいたのですが、本当に命を失ってしまう人もたくさんいると思います。

 

もう死ぬことにしか安らぎを見いだせないのです。

 

 

 

人はなぜ依存症になるのか

依存症は、本人だけではなく、家族や友人というその人が持つ関係性のすべて、さらには仕事や夢や身体も破壊する力を持っています。

 

しかし、確かに依存対象のものは快楽を与えてくれるのですが、そもそも人間はどのような快楽にもすぐに倦んでしまう生き物です。それなのに、なぜ依存症になる人は、これほどのものを失ってさえ、いつになっても倦むことなく、その物質を使い続けるのでしょうか?

 

エドワード・J・カンツィアンとマーク・J・アルバニーズという二人の博士による『人はなぜ依存症になるのか 自己治癒としてのアディクション』より、考察を参考にしながら、依存症への理解を少しずつ深めていってみようと思います。

 

まず、依存症についての誤解にこのようなものがあります。

 

依存症についての誤解

・アルコールや薬物などの『気分を変えてくれる物質』が、脳に強烈な快感をもたらす依存性薬物だから人は依存症になるのだ
・依存症になる人は、何にでも依存しやすい性格の持ち主だからだ

 

 

しかしこの見解は間違っています。

 

なぜなら、アルコールを習慣的にとる人は多くいますが、それではなぜ一部の人だけが依存症になるのかが説明できないからです。また、数種の薬物遍歴を持っている人のうち、最終的にたどりついた薬物は最も「ハードなもの」とは限りません。

 

それに私は思うのですが、依存症に罹る人の中には苦しいときも気持ちを伝えられず、何とかひとりで解決しようと頑張ってしまうような、人に頼ったり甘えたりできない人一倍がまん強い人も多くいるのではないでしょうか。

 

これらのことから、以下のようなことが言えます。

 

 

依存症への理解その①

依存症患者は、「気分を変えてくれる物質」であれば何でも見境なく手を出すわけでは決してない。
自身の内的必要性に基いて選択しているのである。

 

 

・ドラッグ
・アルコール
・ギャンブル
・ダイエット、または過食
・フィットネス
・ゲーム
・セックス
・買い物

 

…など、依存症には物質だけではなく行動を伴うものもあり、両者を併発する場合もありますが、何に依存するかはその人の内的な必要性によって選択をしているのです。

 

二人の博士が率いる研究グループは、依存症理論「自己治癒仮説」というものを唱えており、そこには人がなぜ依存症になるのかについて、このような主張がされています。

 

 

依存症への理解その②

依存症成立に必要な報酬は、物質がもたらすハイな気分(「正の強化」)だけに限らず、主観的苦痛の緩和(「負の強化」)でも十分である。ときには、どう考えても苦痛としか思えないような自己破壊的行動でさえも、それが「説明可能な苦痛」であるがゆえに、「説明困難な苦痛」から意識をそらすのに有効な場合がある。

 

 

自分でもどうしたらよいかわからない悩み、苦しみ……とらえどころがないからこそ心は難しく、把握できないものに脅かされるなら、わかりやすい苦しみの方がよい、という鋭い意見だと思います。

 

よくわからない感情を放っておくということができないのです。そのモヤモヤ、落ち込み、不安、怒りを抱えて漫然と時間を過ごすということさえ恐怖です。

 

清原和博さんも「今でも薬物への欲求が消えない」と言っていますが、博士らの主張は、依存症をやめ続けることが困難な理由を教えてくれています。苦しみをありのまま迎え入れ、変容することを学んでこなかった私たちに、依存症の増加は何を教えてくれているのでしょうか?

 

訳者の松本俊彦さんは、このように言っています。

 

 

依存症への理解その③

実は、依存症患者の多くは、何らかの困難な問題や苦痛と闘うなかで、飲酒量が増えていき、あるいは、仕事や家族、恋人、友人を顧みない薬物乱用へと耽溺していきます。おそらく依存症患者は無意識のうちに、自分たちの抱える困難や苦痛を一時的に緩和する役立つ物質を選択し、苛酷な「いまこの瞬間」を生き延びてきたのでしょう。その結果、確かに依存症には罹患こそしましたが、そのおかげで「死なずにすんだ」と考えることもできるわけです。逆にいえば、幸運にも一時的な断酒や断薬に成功しても、困難や苦痛が依然として存在しているのであれば、その状態を継続することはむずかしくなります。

 

 

これは本当にその通りで、私は治療のために入院をして心身の療養をしたことが何度かありますが、散歩に行って食べ物を食べ、病院のトイレで吐くことをがまんできなかったことが何度かありました。

 

患者の苦しみが何かを知り、その部分に今その時の患者に適した形でアプローチができなければ、たとえ入院をしたとしてもあまり効果は望めないのかもしれません。もちろん入院が無意味だと言っているのではなく、依存症というのは複雑で、治療には時間がかかる場合が多いと言いたいのです。

 

それぐらい、潜在意識や無意識の領域も含めた人の心は複雑ですし、誰もが治療に豊富なお金と時間をかけられるわけではありません。

 

また、子ども時代の心的外傷(トラウマ)体験、あるいは虐待やネグレクト(養育放棄)も依存症発症の背景として認められいます。幼少期の性的虐待、レイプ被害、あるいは戦闘に参加した体験であっても、依存症への罹患リスクはきわめて高く、そのような経験をした人は感情反応が極端なものとなりやすいので、感情的苦痛は圧倒的で耐え難いものとなるか、逆に感情が麻痺したり、たえず混乱した状態になりやすくなります。

 

生涯にわたって自分の感情をコントロールしたり、調整したりするのが難しくなってしまうのです。

 

私は小学校5年生のとき、飼育係をしていて、担任の先生とクラスメートに囲まれながらウサギの赤ちゃんにミルクをあげていたとき、先生が「次はおまえの番だな」と私の方を見て笑いながらいいました。

 

その言葉に悪気は本当になかったと思います。ですが、私は他者であり大人の男性である人から急に自分の胸に注意が向いたことで、瞬間的に恐怖を感じました。もともと精神的に不安定であった私は、その時の体験でさらに「世界とは何をしでかすかわからないもので、自分を脅かすものである」という認識を深めてしまいました。

 

それは、自分の力ではどうすることもできないという無力感にもつながります。摂食障害になる人は、体重や体形をコントロールできるようになったことに自分の力のようなものを感じるのではないでしょうか?その背景には、私のように無力感を抱えて生きてたという理由もあるのかもしれません。

 

依存症になる人は、耐えられないほどの苦しい体験が原因となることもありますが、もともと繊細で過敏、心理的な脆弱性があり、ゆえにその痛みや苦しみは、単に時間の経過だけでは癒されないものとなります。

 

 

 

魂を抱擁する励ましの言葉

祈りは天使の翼に乗って神の祭壇に運ばれる

 

依存症や、HSP、HSS、精神疾患、生まれ育った環境の困難など、生きづらさを抱えた人たちの苦しみを共に感じるとき、本当に、もうそんなに頑張らなくていい、他の誰かにならなくていい、学歴や地位、収入や評価や見た目や将来性や才能や知性や……その他もろもろのものよりもずっと、あなた自身が大切です、そう思います。

 

よい治療が受けられる人はまだ幸せかもしれません。どれほどお金を治療に使えたとしても、愛されている実感がなく孤独なままなら、それは幸福とはいえませんが……。

 

ひとりぼっちでうなだれている人が、今もこの世界にいる。声をあげても誰にも聞いてもらえなかった人達のうめき声。心底悲しいとき、言葉にはなりません。呻きや嘆きでしか表現ができない苦しみがあります。

 

神秘家モーリス・ズンデルの言葉に『神の痛み Souffrance de Dieu』というのがあります。

 

神はけっして私たちが苦しむことを望んではおられません。苦しみと死は神の望みに反して、罪によってこの世界に入ってきたものであり、苦しみや死、悪の責任は神にはないということが、聖書全体と通して響き渡っているのだそうです。

 

神の愛は永遠に変わらず、それは、神自身を損ねたり、神の何かを減らしたりする苦しみではないが、母親が子どものすべての状態を苦しむように、神は被造物である私たちと一体になり、痛み、病気、悲惨、孤独、失望、罪など、すべての人間を痛めつける苦しみを、神は私たちのうちに、私たちのために、私たち以前に、私たち以上に担われるのだと、ズンデル神父は教えてくれます。

 

地獄とは、苦しみそのものではなく、神がもはや私たちのうちにおられないときに、私たちの中にあるのです。

 

このようなことは信仰のない方にとっては、心に響きにくいものだと思うのですが、神は人間の心の迷いや過小評価の傾向をよく知っているためか、あらゆるイメージや言葉によって、たびたび人間がどれほど高価で素晴らしいかを聖書の中で強調しています。

 

いくつか紹介したいと思いますが、神というものを心に置いていなくても苦しみのうちにある人たちに、少しでも励ましとなりましたら幸いに思います。

 

 

シオンは言った。
「主は私を捨て、私を忘れられた。
主は私を心にかけてくださっているのか」
主はこたえられる。
「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子をあわれまないことがあろうか。
たとえ彼らが忘れることがあったとしても、
私はあなたをけっして忘れない。
見よ、私はたなごころにあなたを刻み込んだ」
(イザヤ書49章14~16)

「わたしはずっと心の扉を叩きながら外で待っています。もし愛を理解して迎えてくれるなら、あなたの中に入ってあなたとともにとどまりたい」
(黙示録3章20)

神よ、全身をかけてあなたに感謝します。あなたがわたしの願いを聞き入れてくださったからです。
わたしに対する愛とまことを感謝します。わたしが叫んだ日に来てくださり、生きる力が増しました。
神はわたしの道を完成させてくださるでしょう。神の愛は永遠です。
あなたの愛の業であるわたしを捨てないでしょう。
(詩編138)

人間は美しい花嫁のようで、
神は花婿のように求めてくださる。
(ヨハネ黙示録21章2)

どうしていつも心配するのか。
空の鳥をごらんなさい。
まきもつむぎもしないが、神はその一つにも心を配ってくださっている。
野の百合を見て、美しさを味わいなさい。
一日だけ咲いて枯れてしまう草でさえ、神は美しくしてくださったとすれば、ましてやあなた方は。
(マタイ福音書6章26~34)

 

 

私たちはどうしてこれほどまでに、愛されていることを信じられないのでしょうか。

 

ただただ、今この瞬間も無条件に神は私を愛してくれている、そう思えないのはなぜなのかと私自身も経験上、思います。

 

具体的に人の形をした者に愛を示してもらわなければ納得できないのでしょうか。肉体を通して愛を伝えられないと伝わらないのでしょうか。たしかに神は人間に愛を示すために御ひとり子を与えられました。私たちをそれほどまでに求め、愛してるということを教えてくださいました。

 

依存症や精神疾患に苦しんだ経験のある人なら、人間の愛はおおむね条件付きで不完全なものだということを、身をもって知っているはずです。

 

それでも、依存症の苦しみと孤独を乗り越えるには、人と関わっていくことがどうしても必要だと思います。

 

なぜなら、人間との間で生まれた傷は、人との関係において、信頼という絆、どんな自分も受け入れてもらえたという愛によって、少しずつ癒されていくのです。

 

なかには、どこまでも人との間で理解されず孤独の痛みを生きることを決めて生まれてきた魂の人もいるかもしれません。その体験から何か発明をしたり、後世に残る作品を生み出した人もいると思います。

 

また、人と関わることも、大きなトラウマの体験のある人にとっては簡単ではない場合もあります。

 

ですから、自分が何者で、依存症を体験するという神の御計画がどのようなものかを知ることは大切です。その体験はこの人生で自分が何をこの世に表すためのものであったかを、沈黙のうちに探ってみるのです。

 

すぐにはうまくいかないかもしれない。再び光を失って闇に堕ちるかもしれない。それでも、自分は独りではないと、神を失うことをしなければ、それは地獄ではありません。

 

 

偉そうなことを書いていますが、私も自分の体験や歩んできた道、心に深く響いた言葉をもとに、依存症に関するテキストを書いています。

 

間違いや、考察の甘い箇所も多々あると思いますが、この難病に対し、少しでも新しく生まれ変わるような愛の光が射し込むことを願ってやみません。

 

未来の暴力が減ることを祈るとともに、何より、どこか一言でも依存症と孤独に苦しむ人たちの力になりましたら、これ以上ないほどの幸せです。

 

 

Sitara

 

 

 

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