この星で生きていく

霊的「なぐさめ」と「すさみ」の状態~聖霊に導かれて生きるためのエクササイズ~

霊的な心の動き

雨の日の散歩……植物たちも気持ちよさそうです
地球って、潤んでいるんだなぁと思います

 

 

何億分の一のチャンスで生まれた命

雨の日が続きますが、もう季節は獅子座の頃。

コロナ禍で、たくさんの心配や不安なことがありましたね。自粛で、自身に否が応でも向き合わなくてはならない経験を皆がしましたが、そのとき、仕事や活動がうまく運んでいて、元気で健康な人であっても、「自分の弱さ」に出会ったのではないかと思います。

 

私はもともと、心が揺れやすく、恐れや不安を人一倍感じる人間です。今の自分ではいけない、足りない、と思って、焦ってしまうこともあります。

恐怖や不安は、空気のなかにばらまかれた病原菌のようなものだという意見もあります。生物が生きていく上で、必要な恐怖というのもありますよね。自分の命を守るために暗闇を恐れるとか、危ないと感じるものには近づかないようにする恐れです。

だけど、そうではない恐怖というものがあることを皆さんも知っていると思います。

 

それは、人間がこれまで物質文明を発達させて、戦後の恐慌なども体験しながら、頑張ってこれほどの豊かさを築いてきたのに、とくに日本では多くの人が衣食住に困ることのない幸福に住める条件を与えられているのに、それでもなお、人に不安を覚えさせるような社会をつくってしまった、ということにあります。

人の中に巣くった恐怖は、薬で治せるものでもありませんし、一人一人の中の恐怖と喜びの割合は、さまざまな原因によってそれぞれ違います。

心理占星術の観点では、月が強調されていたり、火星や太陽に困難な配置があったりすると、未来に希望を持って一歩踏み出しチャレンジしていくよりも、外からくる恐怖に敏感になりすぎてしまいます。天王星・海王星・冥王星などの集合意識、時代意識といった目に見えないものをキャッチする天体が働きすぎていても、氾濫する情報に巻き込まれて自分を見失ってしまったり、予感恐怖に怯えてしまうことがあります。

 

私の中にも、迷いや不安がたくさんあります。

ですが、コロナ禍になって、多くの人が自分の弱さに出会いながらもその弱さを受け入れ、人と助け合おうとしたり、より苦しい状況にある人たちに手を差し伸べようとしたり、未来のビジョンを開き、地球と共存していける社会を作っていこうと活発に動いている人もたくさん知ることができました。

 

心の病や、苦しみの最中にある人は、このように前向きに活動をしている人たちを見ることが辛いときもあると思います。

先ほど、恐怖症状は一人一人、みんな違うと書きました。ですから、私がこうして紹介することが、呼んでくださる方たちの薬になるかはわからないのですが、それでも「私の場合はこういうのがよかった」というようなレメディとして語るほかないのですね……

老子が言った、大切にしている三つの宝を紹介しますので、皆さんもご自身にあてはめてみて欲しいなと思います。

 

老子が大切にしていた三つの宝

①愛すること
(人の心にくいこんだ恐怖を溶かす最上の方法、ハートを開くことです)
②あまり欲張らないこと
(恐怖は過剰な欲から発するので、要らないものを欲張らないこと)
③人の先に立とうとしないで、自分のペースで生きること
(具体的な日常の生活で感じる恐怖心を軽減してくれます。自分はどう感じるか、です)

 

生きることは大変なときもありますが、何億分一のチャンスで生まれてきた私たちの命、その命をひとりひとりが喜びを感じて生きることができるように、願いながら言葉を綴ります。

 

 

 

今回は霊的な「なぐさめ」と「すさみ」と呼ばれる状態についてお話をしたいと思います。

私たちの心の中には、疑い、苦しみ、悩み、不安、怒りや憎悪といった感情がたくさん渦巻いています。何かのきっかけでそれらの感情の種に栄養が与えれると、またたくまにネガティブな種は成長し、その人を乗っ取ってしまうこともあります。

本当は、愛情に満ちた思考を持ち、肉体的・精神的に緊張をしていない状態で、寛容な心でいる方が、人間関係や仕事も効率的で、よいものを築いていくことができます。

「肉の思いは死であり、霊の思いはいのちと平和である」というロマ書6節の言葉が示すように、霊的ななぐさめの状態であれば、今この瞬間に満たされ、幸せを感じ、一歩一歩、周囲と地球も守りながら歩んでいく事ができます。困難や試練のときも、誰かを思いやり、願う未来のために、打ち負かされることなく自身を生かす力を奥深いところに感じながら、乗り越えていくことができるものです。

 

・何ものにもとらわれない、自由な心
・悩みや苦しみといった煩悩も、思いやりと理解に変容させる愛の力
・困難な時も自分と世界に希望を見出し、主体的かつゆだねて生きていくこができる信頼
・霊の導きを受け、迷いの時も何をすればよいかを知ることができる明晰性

 

何が霊の思いで、何が肉の思いかを判断するための方法を「霊動識別」といいます。そこで目指したい生き方が、上記のような感じになります。

私も、霊的な「なぐさめ」と「すさみ」の状態を理解し、聖霊の導きを受け、苦しいときもそれを恵みだと思い、本当に叶えたいことをのために宇宙中に飛び散ったカケラを集めて、一生をかけてつくっていきたいと思っています。

 

そして、聖霊の導きを受ける問うことも、アカシックレコードから情報を得るということも、祈りや黙想、瞑想によって無限の領域につながることも、大天使からインスピレーションを授かることも……それほど違わないことではないかと思います。

 

 

霊的な心の動きとは?

霊的な心の動き

 

キリストが私たちに望まれることは、肉の自分から霊の自分に変わること、つまり新しい自分になることです。

それは、自分の全存在を持って霊的生活をすることであり、霊的生活とは、霊に導かれて生きる生活のことを言います。霊の思いは平和と愛ですから、自分も他者も尊重し、互いの個性を育み合い、どこにも格差や権力主義という影を生まないような生き方です。

そのように心も精神も成熟させていくことは、簡単なことではありませんが、様々な体験をしながら少しでも在りたいと願う自分をこの世に表す実践を重ねることによって、次第に私たちの霊性は成長し、新しい自分になっていくことができるのです。

 

……とはいうものの、本当に、複雑な社会でいくつもの悩みや不安を抱えて生きる私たちには、それほど簡単なことではありませんよね。思い切って山にこもったり出家したりしてしまえば、覚悟がある分、集中して実践し、その実りを得ることができると思いますが、私のように普通に仕事をし、病気や心の病も抱え、家族のこと、自身のこと、迷いや不安を経験しやすい者にとって、霊的な生活を送ることは、そこにコミットしていく覚悟と決意がいります。

そして、決意をするには想いがなくてはなりません。勇気は振り絞ったら出るものではないからです。自分のためだけでは、頑張れませんが、誰かのためになら、恐怖や不安を超えていくことができます。

 

さて、日常の暮らしの中で、霊の導きは具体的にどのように自分の中で感じることができるのでしょう?

 

霊的な心の動き

霊的な心の動きというのは、単なる知的な心の動きや心理的なレベルに留まらず、心のもっと奥深くのレベルの動きのことを意味します。この心の奥深くのレベルというのは、自分の考えや感情・情緒の奥にあって、自分のコントロールを越えた心のひびき、心の働きかけとして感じられる次元のことで、意識的な境界領域を超えたところからやってくるように思える心の動きのことです。
(『日常で神とひびく2』/柳田敏洋)

 

「霊の動き」という言葉は、イグナチオが『霊操』の中で使っているものですが、実際には心の奥深くからの動きとともに感情や情緒という心理的な反応もともないます。

例えば、すべきことをしないで自分の楽しみにふけっているときに、心の奥底に感じるある種のうしろめたさ。うまくいかずにガッカリしているときも、何かしら感じる心の奥底からの励まし。困難に取り組み、乗り越えようとしているのに、そのようなことをしても無駄だとある種、威圧感や畏怖をもって迫ってくるもの。

いずれも、奥深くからの内的な感覚で、自分が意図したり、操作したりしたものではない、作為的とは感じられない心の動きのことです。

 

「霊の動き」とは、私たちの心が霊的な存在である善い霊や悪い霊によって動かされていたり、影響を受けることを前提としたもので、このような考えは16世紀のヨーロッパでは当然とされていたことのようです。

聖霊の導きも確かにあるのですが、悪霊も同時に私たちに働きかけています。私たちの中に存在する欲望、感情、欲求、本能などが引き起こす葛藤があります。

 

そこで、聖霊は私をどのように導いてくださるのでしょうか?

また悪霊は、欲望や感情、欲求、本能を用いて、私をどこに連れて行こうとしているのでしょうか?

 

 

正しい判断をし、行動をしなければならないと思っていても、「そうしたい気持ちはある……」とか、「そうする気持ちになかなかなれない……」と言って、一歩を踏み出せないことがあります。

状況の複雑さや、曖昧さがそうさせるのかもしれませんし、生まれつき内発的な欲求が弱くて、自分を突き動かすように働く心の動きを感じにくい人もいます。

その気持ちは高まっていても、何をしたらよいのかわからないときもあります。

 

多くの場合、人は、気持ちや感情、傾きといったものが生じてくる源を見極めようとしないまま、なんとなくそれらの動きに従って行動をしていたり、心の耳にいちばん強く聞こえてくる声に従って生きていたりします。

例えば私は摂食障害の症状を長く経験してきましたが、不安や悲しみを感じたとき、これから茫漠と広がる時間を感じ、その中で空しさや迷い、責任や焦りを感じるだろうことを予期して、それらを避けるために依存症状を選択し続けていました。

空しさ、弱さ、焦り、怒りや悲しみや苦しみ……それらを感じてもいいじゃないか、それらこそが美しい花を咲かせるために必要な土壌になるんだ、そう腹の底から理解をして、どのような思考や感情が自分の中に生じても、それをゆったりと赤子をあやす母のように抱きとめようという、慈しみや安らぎが自分の中に育っていなかったのです。

 

症状として出ていない人でも、感情的な依存は誰にでもあるものですし、自分で決めて選択をしているつもりでも、ほとんどが葛藤に導かれて私たちは選択し、行動をしています。

自分の意識を超えて働きかけてくる様々な動きに巻き込まれてしまったり、恐ろしさからすくんでしまったり、あるいは無視したりしがちです。ときにそれは真実なものへの促しであり、ときにそれは真実から目をそらせ、自我を増長させる働きとしても現れてきます。

 

複雑な心の動きの中で、内的な働きかけをふさわしく見分け、適切に対応し、日常を神との関わりの中で生きていくために欠かせないこと……それが、聖霊の導きを識別するために行う「霊動識別」です。

 

 

 

一つの原則

「霊動識別」の第一原則は、私を押す力と押しとどめる力について説明をしています。

 

聖霊に従って生きる場合

流れは善をする力となっている。しかし、悪霊はつねに、この流れを押しとどめるものとして働き、私たちの前に逆流となって押しよせてくる。つまり、熱心に生きようとする人びとに、聖霊は力を与え、すべての妨げをなくし、心の平安とよろこびを与えるよう働かれるが、悪霊は、いろいろと妨害し、人びとの力を落とさせ、信頼とファイトを失わせる。また、さびしさをつのらせたり、とりこし苦労をさせ、行動することをやめさせようとする。(霊操315参照)

 

神の息吹に生かされていない場合

川の流れに従って生きているのだが、この流れは惰性的に生きて、神の息吹に生かされていない流れである。そういう状態の中で、聖霊は悪の流れを押しとどめる力、悪に抵抗する逆流となって働かれる。つまり、まったく進歩しようとせず、神不在のまま生きる人には、悪霊は虚偽のよろこびを真のよろこびと錯覚させ、神不在の状態から出ないようにごまかしの理論、にせのよろこびを想像させようとする。こういう時、聖霊は人の良心に訴えかけてくださる。これでいいのか、なんとかしなくては……というように、ちょっとしたこと、ごくあたりまえのことがらを通して問いかけてくださる。こうして聖霊が悪の流れを押しかえす力となってくださるのである。(霊操314参照)

 

「肉の望むことは霊に反し、霊の望むことは肉に反する」とありますが、聖霊に従って生きている状態というのは、明確な意図をもってアカシックレコードにつながり、アカシックレコードの波に乗っている状態と同じです。

ただ、注意をしなくてはいけないのは、例えばお金は肉のものだから、お金を稼ぐことは霊に反したことなのだ、というような見方です。物質であっても、すべてがスピリチュアルなので、霊的な生き方をする上で、得たお金を人々のために使うこともできますし、究極的には自分の持ち物なんてないので、偏った厳しすぎる見方はしないようにしましょう。

 

私たちは、神から与えられたすべての可能性を生かし、本当に充実した自分になるために、自分の魂の体操のようなことをして自分の存在全体を整えていきます。

霊的なエクササイズなので、「霊操」という言葉が使われます。

 

『霊操』1番

霊操とは、糾明、黙想、観想、口祷、念祷、その他の霊的働きをするあらゆる方法をさしていう。これが霊操といわれるのは、散歩したり、歩いたり、駆けたりするのが体操であるように、霊魂を準備し、ととのえるあらゆる方法だからである。そしてこれによって、霊魂はすべてのよこしまな欲情を除き去るとともに、これを除き去ったのち、救霊を得るため自分の生活をととのえるうえに、神のみ旨を求め、見いだすのである。

 

 

 

なぐさめの状態とすさみの状態

人は調子のよいときもあれば、悪いときもあります。

また、生まれつき未知のものへ向かって行くバイタリティーの強い人(でも現実を見て着実にやっていくのは苦手)もいれば、メランコリックに悲しみにどっぷり浸かるのが好き(共感能力は高いが、気軽なコミュニケーションや気持ちを上げていくのが苦手)な人もいます。

調子のよいときは、溌剌として、小さなことにも喜びを感じ、希望もあり、やってみみょう!という力も湧いてきます。人に対しても寛大になれるし、他者を思いやる余裕もあります。

ところが悪いときには、落ち込んでしまい、すべてが暗く見え、喜びも感じず、何もする気が起きません。自分も他人も嫌になり、怒りっぽく、泣き虫、ひねくれ者、強情、気が変わりやすい……など、自分の欠点にも疲れてしまい、生きているという実感も味わえません。

 

『霊操』は誠実な人生を望む人たちに助けとなる指針として書かれています。

すさみの状態であっても、これまでの自分本位な生き方を改めて神の心に適った生き方をしてゆこうと真摯に望む人、罪の意識に苛まされながらも、少しでも霊的な歩みを進めていこうと決心した人たちに対して、支えとなるものです。

いったん望んでも、引き戻そうとする内的な働きを何度も体験します。決心が堅固なものになっていないうちは、揺れたり、行きつ戻りつすることがたびたびあります。

「霊動識別」は、それらを見分けて、適切に対応し、望んだ道を歩んでゆくことために行います。

 

よいときを「なぐさめの状態」、悪いときを「すさみの状態」と言いますが、それぞれをもう少し詳しく見ていきます。

 

 

霊的なぐさめの状態

これにはいくつかの状態があります。

①感動する時、神の愛を強く感じる時、キリストを身近に感じる時、仲間を強く感じる時などに、心の中でおこる内的な動きである。感動にとらえられ、神のほかには何も愛することができなくなる。すべてが邪魔に思えてくる。神以外のものが嫌だというわけではなく、それほど神にとらえられているということ。だから、神以外のものを愛するとき、すべてを神の愛のうちにおいて、神にとらえられたその満ちあふれによってのみ愛することができるのであって、これ以外の愛し方ができない状態にあるのである。不純なものがまったくない愛のうちにおける深い感動である。時にこのような大きな感動、なぐさめを感じることがあるが、それはふつう、たびたびあることではない。特別ななぐさめであるといえるだろう。

私にラヴィング・タッチを教えてくれたミィスティカという女性がいます。

彼女は非常に愛に溢れて、ハートから生きている神秘家で、パワフルな人です。ミィスティカが昔、目が見えなくなる病気に罹ってしまったとき、長年瞑想を続けている彼女であっても、非常な不安や孤独、心配を体験したそうです。

ですが、その病そのものを彼女は受け入れ、それを祝福したとき、愛に満ち溢れた体験をしたことを話してくれました。祝福……エンライトメントの状態。それはまさに不純なものが一切ない、愛のうちにおける深い感動だといえます。

エンライトメントの状態を生きている人をエックハルトの言葉で説明すると、以下のような人だと思います。

 

己れの全部を挙げて離脱した人は神に覆われている故に、いかなる被造物にせよ、まず最初に神に触れることなしには彼に触れることはできないのである。どんなものでも彼の所に来るにはどうしても神を通過しなければならないから、すべては神の風味を帯び、神的な色調を呈して来るのである。どんな大きな苦悩であっても、それが来るとき神を通過して来るならば、まず最初にその苦悩を受け給うのは神である。
(『神の慰めの書』/M・エックハルト)

 

生きることのすべてが祝福であり、真に光を生きる在り方、神秘家の生です。

 

 

②涙が出る時のなぐさめである。キリストの御受難と自分の罪に対する神のあわれみを思って深いよろこびを感じたり、何か新しい発見をしたりして、うれしさのあまり、涙があふれ出る。涙は大きな恵みであり、神からの賜物である。

これもミィスティカの言葉ですが、「涙はハートの真珠よ」と言っていました。

どのような小さい、惨めに感じる自分でも、罪に意識に苦しむ時でも、けっして私を見捨てず、常に寄り添い、苦しみに連帯してくださる神がいてくださる。そして、私が神と合一であるのなら、どのような苦しみであっても、それは神を通過して来るのであり、何より神が苦しんでおり、自身を傷つけるときも、それと比較にならないほど傷ついているのは神である……このような真理を、わかる時があります。

 

心に平安と深い落ち着いたよろこびをすなおに感じとることができ、信じ、希望する心は強められ、神をも他人をも心から愛し、すべてを信じたく思い、困難があってもそれに打ち勝てそうな静かな自信とファイトをもつことができる状態。また、自分が神のうちに落ち着き、神について考えるのが楽しく、神とともにいることがありがたく感じられ、神に生かされていることを実感できるような状態である。心の中に光があり、すべての暗闇と不安を追い払い、すべてをすなおに受け入れられる穏やかさ。信仰、希望、愛は深まり、神をもっと知り愛し、自分の霊的成長に励むように招く心の動き。

とくに信仰を持っていなくとも、神を信じていなくても、このような深い安らぎと穏やかさを心の内に体験したことはあると思います。

私たちは、今の心の状態を調べ、なぐさめの状態にあるのか、すさみの状態にあるのかを見分けることができます。方向を確かめ、そのままでいってよいか、それとも軌道修正すべきかの判断の基準となります。

「霊的なぐさめ」とは、愛の神を中心に生きようとし、神に向かうときの心を表していますから、「神へと引き寄せる働き」にひびいているときの心の状態であり、「まず神の国を求めよ、それ以外は追って与えられる」というように、聖霊に導かれた流れに乗って人生を歩んでいくための働きだとも言えます。

 

 

霊的なぐさめの指針

・自己本位な思いがなく、心の奥に清々しさや捉われのなさ、穏やかさが感じられる。
・人への愛や共感が心底からの感覚として感じられる。
・自分のあやまちを素直に認め、そのあやまちを心底から悔いている。そのあやまちに関して自分が取るべき責任に対して留保するところがない。心の奥には自分を悲しむ心とともに何か清々しい気持ちが伴っている。
・自然的な好き嫌いの心の反応から自由であって、愛着や嫌悪の心がない。
・自分に捉われることがなく、同時に自分自身であることを深く肯定している。
・自分を「神の愛に満たされた無」として理解するときに、心に穏やかさ喜びの感覚がある。

 

キリスト教の教えというと、自己犠牲や神に自分の主権を譲り渡しているような理解も見られるのですが、現代に合わせ、キリスト教も仏教もさらなる研鑽と造詣を深めてきた方々によって、現代の私たちが日常で生かしやすい形で実践することができるようになっています。

小さな自我である好き・嫌いを超えて、自我から自由になっており、同時に自身を深く肯定している。唯一無二の存在でありながら、独立して存在する私はなく、私の中の空しさは神の愛によって充満している。

このような状態を私も目指したいと思い、霊的な道を歩み出したのだと思います。

 

霊的なぐさめの注意点

喜びの状態にあるにしろ、なぐさめや平安を感じている時にしろ、それらが真に神からくるものであるか否かをよくわきまえる必要がある。神からくる喜びは、飲み会で大騒ぎをしたり、ある話題に熱中している時に感じる興奮のように、感情の盛り上がりとしてではない。存在の奥深いところから湧き出て、自分を満たす喜び……静かな喜びこそが、神からくる喜びである。

性格的にメランコリーに陥る傾向がある人や内向的な人は、暗い感じのもの、もの悲しいものに、一種の落ち着きを感じることがあるが、それは性格的なものからくる自然の流れにそったもので、真のなぐさめとはいえない。

聖霊は暗闇の状態にある時、なお暗い感じをもたらすような働きかけをするものではない。むしろ落ち込んだ暗い状態、谷底から引きあげ、明るい光の方へ導きたいのであるから、メランコリーとは逆の励ましの声として響くであろう。暗闇の状態にある時、なお暗い感じをもたらすものは、聖霊ではなく悪霊のなす業である。

 

惨めな気持ちの時に、どうせ自分なんて……というふうに思ったり、このような世の中だから仕方がないとか、無力さに打ちひしがれて、生き生きと生きることをあきらめる口実にしてしまうとか、そのような単なる心理的、意識的なものからくる喜びやなぐさめと、神からくる真のなぐさめとは区別する必要があります。

これからテクノロジーがさらに発展し、調和的な社会が築かれていくと思いますが、苦しみがこの世からなくなることはありません。慈しみや憐れみの気持ちが強い人はいつの世も、世界の暴力に胸を痛ませてしまうはずです。

ですが、自分の中にある煩悩を溶かして、いたわりながら変化させられるようになります。嘆きのときに、涙が暗い感情をより誘うものではなく、理解と滋養になるならば、それは聖霊の働きといってよいと思います。

神からくるなぐさめの規律は、いつも、静けさ、安らぎ、深い落ち着き、穏やかさなのであり、なぜなら、心の深いところに入れるのは神のみだからです。

 

 

 

霊的すさみの状態

心の中に暗闇と混乱があり、暗中模索し、どこに向かって進めばよいかわからない。目標を失い、いろいろなくだらないものに惹かれる。たとえば、つまらないテレビ番組や週刊誌、あるいは自分の好奇心を満足させるものしか求めない。ふらふらした気持ちでいて、また、心の中にいろいろな取り越し苦労や暗い考えが浮かんでくる。取り越し苦労から来る不安は、すさみの状態にあることのはっきりした一つの特徴である。

希望をあまり感じず、感動もしない。以前自分に大きな感動を与えたことを繰り返し行っても、何も感動せず、逆に鈍感で、悲観的になり、すべてが暗く見えてくる。その結果、怠惰に陥り、足が重く、何もしたくなくなる。すべての努力は空しく、苦しい感じになってくる。

かつて身近に感じた神は、自分を捨ててしまい、今あるのは惨めな自分だけ。神が存在しないかのように感じ、神から見捨てられたかのように感じる暗い孤独。不安とゆきづまりの状態。

他人がいとわしく、些細なことでも癪に障り、他人の欠点が目についてしかたがない。時には、自分が他人の悪意の犠牲者になっていると思い込んで、他人を受け入れず、心の安定を失う。また嫉妬を感じ、差別しがちになる。

他人と比較し、自分の方が人よりも優れていると考え、傲慢になったり、あるいは自分は人より劣っていると思って腹立たしくなったりする。傲慢と自己嫌悪の間を、常に行ったり来たりしている。結局、自我が強く、神に生かされた状態でなく、自分が神になっている。自分だけが正しく、他の人は間違っているとか、反対に、自分だけが間違っていて、他の人はみな正しいと思い込んでしまう。物事を全体的に見ることができず、一面だけ見つめがちになる。

 

なぐさめの状態が人々との一致をもたらすものであるのに対し、すさみの状態は、人々との不一致、分裂をもたらします。

神からもたらされたなぐさめの状態の時には、その声がはっきりと聞こえるのですが、すさみの状態においては、神の声が聞こえなくなり、自分の情欲や欲望、世間の常識などの声が大きく聞こえてしまいます。

 

しかし、なぐさめの神は、私たちが聞こうと聞くまいと、常に語りかけてくださっているものです。

そこでイグナチオは、私たちが神からの声をキャッチできる状態でいられるように、心身を整えることを勧めています。そして、スピリチュアルな生き方をしていようと、意識していなかろうと、霊に生かされて生きている人は以下のような特徴があります。

 

・自ずからよい行いをし、霊に生かされて大きなプランを立て、現実に打ち勝ちながら自分の理想を生きている
・自分のことよりも、皆の理想を追求した生き方を自然に選びとっている
・外面的に困難、苦しみ、誤解、迫害があっても、心はなぐさめの状態にあり、喜んでそれらに打ち勝ち、なお周囲の人びとにもなぐさめを与えるほどの余裕がある

 

しかし、すさみの状態で生きている人は、以下のような現実を創ってしまいます。

 

・意志も弱まり、打算的で、現実に負けやすく、現実に妥協して理想から離れてしまう
・自分のよい決心を変え、いろいろな誘惑やセックスになぐさめを求めるようになる

 

すさみの状態になってしまう理由は、またの機会に書きたいと思いますが、私たちが霊的になぐさめの状態にあることができたなら、人生の瞬間瞬間をいつも新鮮な気持ちで喜び、どんな困難な時にも希望を見出し、苦しみを力に変えて、美しい花を咲かせ、自らの存在が周囲に明るさや慈しみ、希望となっていきます。

生まれつきどのような障害があっても、人生の中で試練、不条理、暴力を経験しても、生きることを決してあきらめることはありません。

人生をあきらめることはありません。

 

痛みや苦しみを機会に、自身の弱さに出会ったからこそ、他者を思い、本当の願いという未知なる自分に出会う扉となり、お互いに絆を深めていくことができる。

そうに違いないんです。

だってそれは、人として立派だとか、ものすごい事だとかではなくて、人としてあたりまえのことだと私は思うからです。

 

 

 

Sitara

 

 

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