この星で生きていく

不可視なもの・異界の光景を認識するアカシックリーディング

若松英輔 「悲しみの秘儀」

若松英輔 「悲しみの秘儀」

 

 

環境と場の力のアカシックリーディング

リラックスしたいときはよく喫茶店にいきます。

 

昨日はお昼にふと、その場のアカシックレコードを読んでみよう思いました。その場のエネルギーや人間の集合意識をよむには、意識のレベルをさげて自分をなくしていき、主観的な非現実領域へとフォーカスをあわせます。この領域は時間も場所も伸び縮みした不思議な流れ方をしていています。

 

私が住んでいる場所はすでに人足も増え、営業を再開した店も多く、一見、日常が返ってきたかのようです。喫茶店は客でにぎわい、今までに何度も見た風景……

 

ですが、根っこのところにすごい不安があるのを感じました。そうか、みんな意識しているにせよ無意識にせよ、もう今までとは違ってしまったということに気づいていて、これから先どうなるかわからない、今は表向き穏やかだけれども、いつ自分の安心を脅かすようなことが起こるかわからない、そのことに気づいているのがわかりました。

 

不安だからこそ、大丈夫だと感じたくてあえて普通の暮らしに混ざっていっている、だけど同時に信頼もある。それは何かあったときに誰か助けてくれるだろうという信頼でもあります。これは、日本人が昔から自然という思い通りにならないものに対して調和をしていくために連帯をして協力しあってきた記憶が、現代でもDNAやエーテル体を通して受け継がれているかのようでした。

 

もっとも長い文明である縄文時代は母系社会で、秩序を重んじ、略奪や虐殺は起こらなかったそうです。テクノロジーが進んだ現代であっても、このような精神が日本人の根底にはあるのかもしれません。

 

誰もが一様にマスクをしているのですが、コロナに罹患する恐怖は意識の深いところであまり感じず、それよりもマスクをしないことで「世間に迷惑なやつだと思われる」ことの恐怖や恥の意識を強く感じました。

 

 

 

異界の光景を認識する

若松英輔さんの『悲しみの秘儀』を読んでいたら、改めて「リーディング」の意味を深く知ることができました。

 

日本語は漢字が異なっていても音が同じならば同じ意味をもっているのですが、「よむ」という音には句や歌を「詠む」というように使うときもあります。

 

「詠む」は「ながむ」とも読みますが、『新古今和歌集』の時代、「眺む」は遠くを見ることだけではなく、異界の光景を認識することを指していたのだそうです。

 

これはまさにアカシックリーディングだ!と、そう感じました。本には、私たちが言葉を読むときも、その言葉の奥に隠れた意味があることを感じている、つまり、「よむ」という言葉には、どこか彼方の世界を感じとろうとする働きがある、と書かれています。

 

現代に生きる私たちは、情報を取り入れることに忙しく、人間が本来持っている知性や感性は目の前の小さな現実に閉じ込められてしまいます。とくに今のような状況のときは顕著になるのですが、どうやって生きていくかにばかり意識を費やしてしまうのです。

 

アカシックレコードを読む手は、目の前の現象は全体性の一部にすぎないことを知っていて、現象だけではなくその背景に意識を向けることができる人です。

 

現象世界の背景には、時間・空間・意識が畳み込まれた空である無限のエネルギー領域があり、読み手は直接意識内に響き渡るテレパシーによって情報を得ます。情報はどのような形でやってくるのかはわかりません。想像を超えた異界、彼方から、それはやってくるからです。

 

若松英輔さんは、句や歌を詠むということに対し、情報取得に忙しい現代人は「不可視なものを“よむ”ことを忘れ、ひたすら多くのことについて知ろうとしている」と言います。

 

「よむ」とは、単に文字を追うことではなく、「低い」「空気が濃密な場所」へと赴いて、言葉の奥にひそむ意味を発見することではないか、と。

 

若松さんは、本を読むときにアカシックリーディングをしているのでしょう。もとより、言葉というのは象徴であり、真実を表現することはできないのだとしても、その言葉を生み出すのは意識の深みにある「沈黙」です。

 

詩人の谷川俊太郎さんは、生きるために沈黙に言葉をもって戦うのは詩人の義務だと言っていますが、私はずっと昔、詩を書くというのはなんて孤独な作業なのだろうと思ったことを覚えています。例えるなら、たったひとりで世界一深い海溝の底にまで降りて行って、その証拠に石をひとつとってくるようなイメージです。

 

私たちの意識は深いところですべてとつながっています。この領域に触れるには「私」を手放していくことが必要ですが、それは意識のレベルを低くし、そしてあらゆるものが溶け合っている「空気の濃密な場所」へと自然に赴いていく、ということです。

 

 

場の力と私の神聖さのコラボレーション

環境と自分はどのように影響し合っているのでしょうか。

 

現実として現れているものは、その背景にそれらを生み出した無限のエネルギーの領域があるように、今ここに現れている「私」という存在も、宇宙や地球、国や地域といった環境の現われのごく一部である、といえます。

 

環境や場の力のアカシックレコードを読むということは、その場の不可視の領域にアクセスすることであり、場の歴史はひとりの人間よりもはるかに長いので、場のリーディングとは人類が失ってしまった「長い時間」の感覚を取り戻すことでもあります。

 

本来アカシックリーダーとは場の力を読むことの人をいい、パワースポットと呼ばれる場所には必ず読み手がいたそうです。いわゆる遺跡の見つかった場所がそうですが、遺跡の多くは星を観測する機能を持っています。古代の人々はただ星を見るだけではなく、その場の力を使い意識のフォーカスを星々にあわせ、異なる星や星系に存在する肉体にまで意識を伸ばし、その肉体を操ったり、インスピレーションを得ることが可能でした。

 

アカシックリーダーは天と地をつなぎ、無限の領域と有限の領域をつなぎます。この地上に生命力をもたらす役割を持ってるのです。

 

以前ワークショップに参加をしたときに、今回のコロナ騒動にはアンドロメダからの介入が入っているので、向こうでも相当大変なことが起こっていると話をしていました。

 

私たちは他者・環境・星などが自分が別個に存在すると思っていますが、そう思いたい欲求ゆえに、「行っているのはこの私であり、体験しているのもこの私なのだ」という考えが生じます。今自分が感じていることや、起こっていることが、世界でも起こっていることなのだとは思いません。世界の誰かが体験したことを、自分に起こったことのようには感じないのが普通です。

 

しかし、かつての人類は「長い時間」を基礎においていたので、政治や道徳などあらゆる行いは数万年という単位で見据えていて、その根本には「環境と一致した永続可能型の社会システム」がありました。例えば生活排水を川に流した場合、かつての人類なら、その影響は自分の周囲だけではなく世界にも宇宙にもおよび、その影響は数万年にわたって響くという意識があったということです。

 

環境を自分そのものだと見る意識があったからこそ、場の力のリーディグができたし、世間の声や情報よりも自然からの呼びかけに耳をすませ、身体の声を聞き、星の導きにゆだね、何より囁くような神の声を聞くことができたのだと思います。

 

 

場の力の影響はとても大きくて、その土地の環境と、その場の歴史的な背景も含んだ集合意識、その土地に住まう精霊や神々が、影響としてあります。そうなると、私という存在は環境・集合意識・土地からの影響を抜いては考えられず、また、言葉というのもこれまでの歴史や集合意識がつくりあげてきた価値観が織り込まれています。

 

言葉を知ったり、使ったりするたびに、その人の脳のニューロンは新しくなっていきます。言葉に含まれる日本人の精神性や価値観は、幼いころから無意識的にも私たちの深くに根付いています。

 

陽気な人であっても、住む場所が大きく変われば鬱になることがあります。土地が変われば、人は変わる……場があってこその自分だとわかります。

 

ですが、私たちの魂はあらかじめどのような場と関わるかを決めていて、また、真実の私になるために必要な環境を引き寄せます。

 

不可視の領域に触れる、長い時間の意識で場と関わる、それができれば、その土地の守り手はその者に喜んで力を貸すといいます。場の力をよむとは、無限のエネルギーをこの土地にもたらし、その場の力を理解しながらどのようにコラボレーションをしていくかを考えることができるようになることでもあります。

 

それは本を読むときであっても、「本の中の言葉」という場の背景にある不可視の領域に触れ、無心に読むことによって自分の内側から呼応するものが引き出され、あふれだす無限のエネルギーに導かれて新しいものを生み出していくということです。これは場の力と私の神聖さとの共同創造です。

 

私たちは関わりのなかでコラボレーションをしています。自分の顔を自分で見ることは一生叶わないように、他者との関わりのなかでのみ自身を見いだせるのだなと、改めて知ることができました。

 

 

作品は、作者のものではない。書き終わった地点から書き手の手を離れてゆく。言葉は、書かれただけでは未完成で、読まれることによって結実する。読まれることによってのみ、魂に語りかける無形の言葉になって世に放たれる。読み手は、書き手とは異なる視座から作品を読み、何かを創造している。書き手は、自分が何を書いたか、作品の全貌を知らない。それを知るのはいつも、読み手の役割なのである。
(『悲しみの秘儀』/若松英輔)

 

 

Sitara

 

 

 

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